鶴ヶ城
会津若松は初めて訪れる場所である。郡山から磐梯西線で入ったのだが、山地に突然、盆地が開ける。江戸末期によくもまあ、こんなところに官軍が攻めてきたものと感心する。
城の歴史は、至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館を作ったところから始まる。黒川城と呼ばれていたが、文禄2年(1593)に七層の天守閣が完成。黒川が若松に改められ、城も鶴ヶ城と命名された。会津の領主はめまぐるしく変わった。寛永20年(1643)から三代将軍家光の弟・保科正之が城主になり、以降、松平姓に変わって幕末の戊辰戦争まで続く。明治7年(1874)に、陸軍省が鶴ヶ城を破壊した。そして昭和40年(1965)に天守閣が元の形に復元されたのである。
忠節も信義もかすみ都合よき方へ傾く雲上人は
武士道は天主に都合よき言葉隊士らあまた忠節に死す
砲弾の穴あまたあく鶴ヶ城崩壊前の写真残れり
官軍の鼓笛ひびかふ城内に藩主系譜の品展示さる
降伏の時機失すれば無残なりしひたげられし藩士の家族
のつぺりの貌(かんばせ)見れば腹立たし武士が支ふる幕藩
体制
いにしへのお城勤めを想はせて腰元、足軽、忍者、騎馬隊
「ならぬことはなりませぬ」とふ武士道の碑(いしぶみ)
読めばいきどほろしも
黄金の稲田のかなた湖けぶる
穂芒やSLを待つカメラマン