太田水穂は、昭和九年に扇ガ谷に山荘を建て、十四年に妻の四賀光子と共に居を移して没年まで住んだ。水穂は昭和三十年に七十九歳で、また光子は昭和五十一年に九十一歳で亡くなっている。
白王の牡丹の花の底ひより湧きあがりくる
潮の音きこゆ 水穂
流らふる大悲の海に呼ばふ声時をへだてて
なほたしかなり 光子
光子のこの歌の歌碑が、東慶寺本堂入口の右側にある。夫妻は同寺の墓地に眠っている。「水穂居士」と書かれた一つの墓石の両側に次のようなそれぞれの歌碑がある。
何ことを待つへきなら志何ことも
かつがつおもふ程は遂げしに 水穂
九十年 光子
生き来し
われか
目つむれば
遠汐さゐの
音ぞきこゆる