現代口語短歌の完成
口語短歌の試みは、古く明治時代(例:青山霞村)以来ある。ただ、なかなか定着はせず、最近まで口語と文語の混合体が流通してきた。
今回、短歌研究賞を受賞した穂村弘の作品(「短歌研究」九月号に掲載)を読むと、やっと現代口語短歌が完成の域に達した感を受けた。それは,単に口語の措辞が短歌の韻律にうまく乗っているだけの理由ではなく、これなら小学生や中学生にも理解できるし、作ることもできそうだ、という広がりを持たせた点を評価するからである。句割れ・句跨りと舌足らずを許容してもらう必要があるが、短歌に詠む心情と短歌の構造がうまく融合している。穂村は、更に短歌の約束事である私性、即ち、作品の主人公=作者 を破ったと岡井隆は指摘している。つまり穂村の作品は、自分のことを詠んでいるとは限らないのだ。
実を言うと、穂村弘の作品は以前からあまり好きでなかった。今にして思えば、従来の短歌らしくないからであった。つまり、口語の句割れ・句跨りと舌足らずが多いからであった。なお、穂村も口語と文語の混合体はよく使っているので、彼が口語一辺倒というわけではない。
受賞作の中から三首上げてみよう。
食卓で足をぶらぶら窓からは眩しい庭の光がみえる
図書館の床をひかりの赤ちゃんがちろちろ這っている登校日
物凄い舌たらずです 真夜中にうなぎのぼってゆく視聴率
穂村弘の口語短歌の路線を大学生レベルで作品にした良い例が、同じ「短歌研究」九月号の短歌研究新人賞になっている。田口綾子「冬の火」である。三首をあげる。
あのひとの思想のようなさびしさで月の光がティンパニに降る
いくつかの「もし」が交錯するなかでスプーンだけが輪郭をもつ
早朝にキャッチボールをしませんか壊れたものをきらきらさせて
こうした作品を読むと、短歌は滅びるどころか今後は現代詩を越えて、青少年層を中心に、盛んになる予感がする。ただし口語短歌が主流で、文語短歌は影薄くなろう。その意味で、今年の「短歌研究」九月号はエポックメイキングな雑誌である。