天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

目玉風船

藤沢市にて

 今日は失敗談を。
11月の短歌人・東京歌会は、上野文化会館で開催された。わが詠草は次の歌。


  葉の落ちて実のあらはなる柿の木に主人が掛けし目玉風船


意見は当然、四句「主人が掛けし」に集中した。言わずもがな、ということである。
実はもとの歌は、


  葉の落ちて実のあらはなる柿の木に大き目玉の風船が垂る


であった。これではインパクトがないと感じて、提出歌にしたのだが、四句が目玉風船の目的を念押しする形になり、えげつない感じを与えるのだ。
 通常は、歌会で出されたさまざまな意見によって自分の歌の姿を変更することはないのだが、今回は、前もって気になっていたので、歌会の帰りの電車で推敲し、以下のように直してみた。


  葉の落ちて実のあらはなる柿の木に所在なげなり目玉風船


これでも、主観を入れるのはよくない、という立場からはNGが出そう。それでもう一度、以前みた情景の場所に行ってみた。農家の庭の件の柿の木には、すでに大半の実がなくなり、目玉風船も張を失って垂れていた。
 結局は、なにも手を入れない元の歌がよさそうだ、との結論に達した次第。


  先に見し枝の柿の実おほかたは失せてたるめる目玉風船 
 

なお、目玉風船という言葉は、辞書になく造語である。