天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(7)―

岩波書店刊

  裏戸(うらと)いでてわれ畑中(はたなか)になげくなり人の
  いのちは薤(かい)のうへのつゆ        斎藤茂吉『石泉』

  
塚本邦雄久久に見る離れ業である。それも現実と観念との並列照応といふ一種の定石ではなく、上句下句の鮮やかなコントラストでありながら、その双方に抽象・具象両要素を含んでゐる点、しかも見事に成功してゐるところ、『石泉』屈指の作と思はれる。
 「裏戸(うらと)いでてわれ畑中(はたなか)に」と、作者得意の日常的現実を先行させることによつて、辣韮(らつきよう)は、緑青色に濡れて、その滑らかな細葉の面、露の珠の粒粒を宿らせ、一瞬朝の光にきらめき、こぼれ落ちる。その様が目に見える。「薤(かい)露(ろ)」の出典を承知してゐてなほ、否、知つてゐれば余計に、現実感が加はつて感銘も新たと言へるだらう。(1981年2月文芸春秋社
[小池 光]漢詩に薤露歌という形式があり人のいのちのはかなさをニラの上の露に例える。下句をこれだけ取り出してみれば成語そのものの転用であり、何の新風があるわけでない。慣用表現そのままの、平凡といえば平凡の極み、また、それを重々承知の上での決行であれば大胆の極みというべきものである。
 表現の新はただ上句にのみあり、それもつきつめれば「裏戸いでて」の初句六音に求められる。それで十分歌になるのであるから短歌というものはいかにも継続の詩である。
 金瓶の生家の裏戸か、上山の山城屋の裏戸か、偶々そこをあけて畑に出た。ニラの上に露の水滴がついて光っている。それを見た瞬間、ああまさに人のいのちは薤の上の露だとおもった。そう読むべきであろう。むろん死がさしせまった兄のことが念頭にある。ならば下句はただ慣用表現を借用したのでなくて、ああ、まさにそういうものだ、という突出した覚醒がこもっているといわなければならない。ウラトイデテ、というくぐもった音感、それに続いてワレハタナカニというア音主導に一挙に転換する。ここにパッと空間が開く感じがするだろう。そこに点々とあえかなニラの水滴が点っているのだ。 (「短歌人」1998年2月号〜2002年6月号)


 塚本はあくまで一首の内容の範囲内で鑑賞している。先ずは一首の範囲内で鑑賞し尽すのが歌の評価の基本であろう。その上で小池は、茂吉の当時の環境などの個人情報を付け加えて鑑賞し、余情を深めている。