天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(7)―

山本健吉著「現代秀句」

     遠山に日の当りたる枯野かな     高浜虚子『五百句』


山本健吉この句のよさを説き明かすことは至難である。「枯野」と「遠山」の取り合せに、かくべつおもしろみがあるはずもない。すると問題は、この二つの名詞を結ぶ「日の当りたる」という、それ自身として何の妙味もない詩句にあるのだろう。この言葉によって「遠山」が生き、「枯野」が生きるのだ。
飯田龍太静かに澄んで、しかも、時空の奥行きを持った鮮明な句だ。いわば模範解答のような句。時の風化にも耐えて、凛として立っている。その理由のひとつは、遠山も枯野も、作者の手から素早く読者の手に渡され、無意識のうちに読者自身の山となり枯野となって、想像の世界に生きるためだろう。偶然の余慶ではなく、必然の余慶だ。必ず作者の一番大事なものが秘められている。その秘密を、あらわに感じさせないで素早く読者の胸に棲わせたとき、そこにおのずからなる作品の位いが得られるのだ。
[川名 大]この句の鑑賞のポイントは俳句特有の構成と切れを把握することである。「日の当りたる」の「たる」は存続の助動詞「たり」の連体形で、文法的には下の体言「枯野」にかかっているように見えるが、意味的、イメージ的にはここで大きな断絶がある。
 これは俳句特有の屈折した構成なので、慣れないと枯野に日が当たっていると誤解しやすい。「遠山に日の当りたる」が遠景、「枯野かな」が眼前の景遠山に日の当りたるである。眼前に広がる冬枯れの野はもうすっかり日が落ちて䔥条とした光景だが、遠山の頂にはま
だ夕日が当たって、そこだけが明るく、浮き出たように感じられるのである。


 山本健吉は、一句のどこにポイントがあるかを指摘。龍太の鑑賞は、具体を省いた精神論に終わっている。川名の評は、句の構造にまで言及して明解な鑑賞になっている。