天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―詩 篇(2)―

明治編

 以前、蒲原有明の鎌倉旧居について紹介したが、それがきっかけで日本の近代詩につき要点を知りたくなった。それで、吉田精一『日本近代詩鑑賞』の明治篇、大正篇、昭和篇(新潮文庫)の古書三冊をアマゾンで購入し、読み始めた。著者の吉田精一は、近代文学が専門の国文学者。吉田の文章は、詩のようなリズム感があって、大変読みやすい。その明治篇の中の「石川啄木」を読んでいて、「詩人の歌と、歌人の歌とには、本質的にいく分の違ひがあると思ふ」という指摘に注目した。吉田は、詩人の歌の特徴を次のように述べる。(要約する)

 *短歌的声調に律し切られない。固定した「目安」をもたず、
  自在に放埓にレンズは動き、伝統からはみ出す。
 *時に「あま」く、時に「たる」む。時に敢えて連作による
  小説的なものを題材とする。
 *表現はただ心の触手であればよい。より広い人生に面を
  合わせ、より社会的な視野をも含み得る。
 *自然を歌っても人間臭が強く、感傷や憂鬱や哀傷が、より
  なまな形で流動している。

詩人の歌の例として、北原白秋『桐の花』、若山牧水『別離』、吉井 勇『酒ほがひ』、石川啄木『一握の砂』『悲しき玩具』などをあげる。特に啄木の歌については、次のように分析している。
  短歌的声調が本来三十一音を一行に書き下し、一気によみ下す
  ところに成立するとすれば、心の屈折をそのまま行分けして
  はじめて面白味を得る啄木の歌は、もやは歌でないといえる。
  内容上の特色を備えている上に形式的にも既に詩といってよい。


 なお、歌人の歌とは、正岡子規斎藤茂吉が詠んだ歌を指した。

北原白秋は、周知のように詩と短歌の間を自由に行き来した。

        「落葉松」(詩)の第三聯

      からまつの林の奥も
      わが通る道はありけり。
      霧雨のかかる道なり。
      山風のかよふ道なり。
対応する短歌として、
  夕山は落葉松つづきから松に白かんばまじり霧小雨あり

        「落葉松」(詩)の第六聯

      からまつの林を出でて、
      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
      からまつのまたそのうへに。
対応する短歌として、
  この夕べ浅間は見えず雨雲の彌(いや)しき垂れて裾野蔽へり