天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学―短歌編(40)―

啄木の歌の表記の例

石川啄木の百首』の続きであるが、ここでは、小池さんが深くは言及していない啄木の歌の表記について、課題を喚起しておきたい。それは、多彩な三行分かち書きの意図、についてである。詩人の北川透が『詩的レトリック入門』(思潮社)で余白論を試みているが、俳句についても短歌についても具体的な作品で、効果を解説していないので、どうも腑に落ちない。啄木の歌の例をいくつかあげよう。


  東海の小島の磯の白砂(しらすな)に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる


  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ


  呼吸(いき)すれば、
  胸の中(うち)にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音。


  春の雪みだれて降るを
   熱のある目に
   かなしくも眺め入りたる。


  いつも、子を
   うるさきものに思ひゐし間(おひだ)に、
  その子、五歳(いつつ)になれり。


それぞれの表記、句読点の置き方、間やスペースのとり方、改行、言葉のかたまり などが、それぞれの作品にいかなる効果(視覚や聴覚)をもたらしているか。その説明を鑑賞文に入れることは、大変煩わしいが、読者には知りたいところである。
 前衛俳句では高柳重信が、また前衛短歌では岡井隆が、俳句や短歌に多彩な多行書き表記を適用している。それらの鑑賞では、その効果を語ることは避けられない。だが誰も試みていない新分野といえる。