天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(20)―

笠間書院刊

  革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化
  してゆくピアノ     塚本邦雄『水葬物語』


[坂井修一]作詞家は、すでに幾度となく革命の歌を作ってきた。自由の賛歌であり、理想社会の導入であるべきその歌は、しかし、社会の本質をとらえたり、変革したりする力を得ることがない。ピアノのメロディーにもたれかかり、とろとろとへなへなと萎えてゆく。いやいや、ピアノのほうが作詞家の貧しさに、萎えて溶解してゆくのである。それは、彼の底の浅さや偽善によるのであり、ひいては、革命そのもののうさん臭さや、新しい時代の底の浅さを示すものであろう。
[島内景二]・・・大切なのは、革命歌の言葉の意味ではなく、革命歌の音の響きである。革命歌を美しく響かせるピアノのくきやかな音は、言葉の意味しか重視しない散文的な作詞家によって、存在感を失い、溶けていった。瀕死のピアノの悲鳴は、短歌という形式の悲鳴である。革命的に新しい短歌の響きを、今こそ取り戻そう。・・・「語割れ・句またがり」の特色は、音読のスピードが微妙に変化することにより、音韻上の魅力が際立つ点にある。・・・加えて、この技法の最大の特色は、意味内容の曖昧化である。音韻の快感によって、意味が遠景へと退いてゆく。だから、読者の解釈に委ねられる領域が急増する。


 ここには引用しなかったが、坂井も島内も、塚本邦雄の提唱した「語割れ・句またがり」の手法が、短歌に革新をもたらした意義を解説している。注目したいのは、島内の後半の「意味内容の曖昧化」という指摘である。