天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(22)―

短歌研究社刊

  民族のエミグラチオはいにしへも國のさかひを
  つひに越えにき       斎藤茂吉『白桃』


[岡井 隆]歌の場合はわりあいうまく外国語を入れていると思います。これなんかも「エミグラチオ」という言葉のひびきが、日本語にない新撰さをもっていていいと私は思います。この歌、じっさいは非常に厳しいことを言っているのです。民族というものは、昔からそうだけれども、人工的に国境なんてものをいくらつくたって、ある必然性があって、それを超えていくんだと言っています。当時の日本民族が、たとえば、朝鮮半島なり、満州なり、中国なり、あるいは、南方の、仏印とかへ進出する、その現実を擁護しているともとれます。


[小池 光]「国のさかひ」は、満州国熱河省との境界線、あるいはずばり万里の長城を想定しているであろう。堅牢たる、文字通りの「さかひ」であるから、「つひに」と力が入っているわけである。ここで移動とか進出とかいわず、まして侵入といわず、エミグラチオとおよそ民衆の知らない西欧古典語を持ち出したところが周到なところだ。なにやら学術論文のような気がする。民族にはエミグラチオなる属性がそもそも備わっていて、ある条件が満たされればその属性が発動するのは昔も今も必然的な自然過程である。そういう印象を与える。そういわれて読者が思わずうなずいてしまうのを歌の力とすれば、この歌にはやはり相応の力があることを認めざるを得ない。


*歌集『白桃』の歌は、昭和8,9年に作られ、昭和17年に上梓された。歌が詠まれたのは、昭和7年に日本軍が満州国を作った後、中国大陸における地歩を固めつつあった時期である。そして歌集として公開されたのは、太平洋戦争のさなかで、ミッドウェー海戦から戦局が敗戦に転じようとする時期であった。岡井隆が言うように、日本軍の進出を擁護する気持があったかも知れず、あるいは後の言い訳にもなり得る内容であった。世界史を振り返れば、茂吉の詠う通りなのだから。他の戦意高揚の歌は嫌われるが、この歌は小池光の言う通り妙に説得力を持つ。