鑑賞の文学 ―俳句篇(38)―
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄
この句はどこで詠まれたと読者は想像して鑑賞するであろうか。私の場合、関東なら福島県の須賀川牡丹園、関西なら奈良県の長谷寺あたりの牡丹の名所での作とばかり思っていた。ところが、森澄雄の『俳句への旅』の中の「作品の虚実」を読んで愕然とした。牡丹の名所でもなんでもない湘南二宮の徳富蘇峰記念館の庭を訪ねた折の幻想からであったという。この庭には牡丹の古木が数本あるというので、仲間四、五人と一緒に訪ねたのだが、花はあらかた終っていた。句はそのあとの小句会で即座にできたものという。これが後に森澄雄の代表句の一つになるのである。
森澄雄は芭蕉の言葉「虚に居て実を行ふべし。実に居て虚を行ふべからず」を信奉して、「俳句は虚に居て遊ぶもの」「虚空にある実在こそを」、「俳諧は写生の芸ではなく、人生の芸だ」と度々説いている。その実践例が、掲出の牡丹句なのである。
このように作られた森澄雄の俳句を次に二句あげておく。
明るくてまだ冷たくて流し雛
雁や胎中といふ山の村
「流し雛」の句は、木下恵介のテレビ劇を見ての発想。「山の村」句では、季節が違い雁など飛んでいなかった。ということを作者自身があかしている。こうした背景を知らないで書かれた鑑賞文は、やはり虚構になってしまう。まさしく遊び。森澄雄はそれでよいとする。
実は詩歌における虚実論は、歴史的経緯が複雑である。簡単にいうと「詩の真実は、ありのままを写すことにあらず。背後にあるものを想像する(嘘・虚を述べる)ことで現れる」という論なのである。