天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(39)―

日本緑化センターのHPから

     みちのくの淋代の浜若布寄す  山口青邨


 前回、森澄雄の俳句について述べた「詩としての真実」が、この句についても言えることが、三月号の「古志」での大谷弘至主宰の解説「俳句のために」で分った。大谷主宰も森澄雄と同様な考え方である。以下に大略を引用しよう。


 「淋代の浜」は青森県八戸にあるが、実際には、この句のように「若布」が寄せてくることはないという。それでこの句は嘘である、との批判を受けた。「事実でないことを俳句にしてはいけない」という考えを頑なにもっている人は少なくない。しかし事実として詠む「みちのくの淋代の浜若布来ず」では、まったくつまらない句になってしまう。青邨の句のほうが、はるかに説得力があるし、豊かだ。青邨によると、この句は席題で詠んだもので、「若布」という題が出たとき、すぐに「淋代」が心に湧きおこってきたという。ちなみに青邨は淋代には行ったことがなかった。「淋代」という地名がもつ語感から想像力をもって詠んだことになる。この句は客観的な事実よりも詩的真実が上回ったいい例であろう。
 ドビュッシーは「芸術とは最も美しい嘘のことである」といっているが、俳句も同様ではないだろうか。


 短歌では事実に反することや嘘を詠むことは、俳句よりももっと厳しく批判される傾向にある。歌会で、指導的立場の歌人から「あり得ない!」と指摘され、「嘘を詠んではならない」と戒められる。
 だが、古典和歌の歌人は、屏風絵や漢籍などを見て経験のないことを自由に歌に詠んだ。連歌俳諧の場でも同様に自由であった。正岡子規による俳句・短歌の革新(客観写生)が、そうした自由を封殺したことになる。
 ところで自由な発想の俳句が閉塞したわけでなく、永田耕衣金子兜太などによって輝かしい成果をあげている。ただ、一般の理解が行き届いていない。少数派なのである。