谷の歌―西行
奥吉野の西行庵跡は、これまでに二回ほど訪ねたことがある。谷(西行谷と呼ばれることも)の途中にある。まことに小さな小屋で、本物には似ていないだろうと思った。
西行の『山家集』には、以下の26首がある。
春しれと谷の下みづもりぞくる岩間の氷ひま絶えにけり
くる春は嶺の霞をさきだてて谷のかけひをつたふなりけり
古巣うとく谷の鶯なりはてば我やかはりてなかむとすらむ
うぐひすは谷の古巣を出でぬともわが行方をば忘れざらなむ
鶯は我を巣もりにたのみてや谷の外へは出でて行くらむ
春のほどは我が住む庵の友になりて古巣な出でそ谷の鶯
山ふかみ霞こめたる柴の庵にこととふものは谷のうぐひす
鶯は田舎の谷の巣なれどもだみたる聲は鳴かぬなりけり
雪分けて外山が谷のうぐひすは麓の里に春や告ぐらむ
雪とぢし谷の古巣を思ひ出でて花にむつるる鶯の聲
おぼつかな谷は櫻のいかならむ嶺にはいまだかけぬ白雲
谷風の花の波をし吹きこせばゐせぎにたてる嶺のむら松
吉野山谷へたなびく白雲は嶺の櫻の散るにやあるらむ
かげ消えて端山の月はもりもこず谷は梢の雪と見えつつ
谷ふかく住むかと思ひてとはぬ間に恨をむすぶ菊の下水
谷風は戸を吹きあけて入るものをなにと嵐の窓たたくらむ
なかなかに谷の細道うづめ雪ありとて人の通ふべきかは
谷の庵に玉の簾をかけましやすがるたるひの軒をとぢずば
月すめば谷にぞ雲はしづむめる嶺吹きはらふ風にしかれて
かみなづき谷にぞ雲はしぐるめる月すむ嶺は秋にかはらで
山ふかみさこそあらめときこえつつ音あはれなる谷川の水
谷のまにひとりぞ松はたてりける我のみ友はなきかと思へば
とだえせでいつまで人のかよひけむ嵐ぞわたる谷のかけ橋
世を出でて渓に住みけるうれしさは古巣に残る鶯のこゑ
いかでわれ谷の岩根のつゆけきに雲ふむ山のみねにのぼらむ
谷のまも峯のつづきも吉野山はなゆゑ踏まぬ岩根あらじを