天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

谷の歌―前登志夫

吉野渓谷

 吉野下市町に生まれ育った前登志夫の『霊異記抄』には、
以下の15首がある。


  谷くらく蜩蝉(かなかな)さやぐ、少年の掌(て)に
  あやめたる黄金(きん)のかなかな


  艶めきて椿の谷を冬わたるこの負債者に沼凍るなり
  昼の星さやげる谿をのぼりくる童子を呼べば
  雪木霊(ゆきこだま)たつ


  夜ごもりにわが谷出でて漂へる螢を呼べばつゆふくむかな
  かぎりなく螢の湧けるわが谷に眠れるものぞ白馬ならむ
  わが谷の礫(れき)打ちあはせ鳴くよたかつゆふくむ夜に
  村は狩られむ


  夕靄に石を投ぐれば谷間より青竹のこゑ澄みて帰りぬ
  むらさきのうづ巻く谷をへだつればさらばへし餓鬼の
  一人と言はむ


  しんしんと青き傾斜に陽は差して谷行(たにかう)といふ亡びもあらむ
  かりがねは澄みてわたりぬ二十年(はたとせ)のわが谷行(たにかう)の
  終りを告ぐる


  霧湧ける山の夜よる子の花火夏の終りの谷にむかひて
  わが谷のやや明るめば青葉木菟鳴き出づるなり咎疼くまで
  かすかなる響みをのこしのき出づるむささびを思へばわが谷暗し
  雪景となりたる朝のわが谷に子を行かしめて黄の帽ゆらぐ
  花群を過ぎゆくときに天狗だふし谷とよもしき麦青かりき


[注]谷行の本来の意味は、修験者が峰入りの時、同行中の病人を掟によって谷間へ突き落として行ったことである。