歌集『思川の岸辺』(5)
この歌集は、奥さんを癌で亡くした悲しみが主題だが、小池さんの作品に共通するユーモア、ウィット、ペーソスで溢れている。副詞(句)や対句、比喩などの巧みな用法による。
海峡をいつとはなしに抜けしとき静かの海は
ひろがりてをり
「ボナパる」といふ動詞ありき「日和(ひよ)る」より
ややに左にみぞれは傘に
椿油つけて九年になりぬれば海石榴(つばき)のはなが咲く
ときがある
加須(かそ)の次ぎ久喜(くき)にとまれる急行にわれと
あたまの毛帽子と乗る
四十九個の疣(いぼ)の一つをわれ押してはなれたところの
テレビを消しつ
猿のお面(めん)やをら外せば本物の猿あらはれぬああお正月
タラバ蟹の一本の脚を抜きて食ふ口腔ふかくふかく笑ひて
かなしみの原型としてゆたんぽはゆたんぽ自身を暖めてをり
みぎの手は左手を助けひだりの手右手を助く沁みておもへる
みづからに作りし生姜焼食ふときにいただきますと声に出でたり
家裏のどくだみ群落はきみを苦しめききみなきいまはわれが苦しむ
眼前に落ちて来たりし青柿はひとたび撥ねてふたたび撥ねず
ところてんひとたび食ひてふたたびは食はずに来たり五十余年を
つひにしてかかとに穴のあきたりし毛糸靴下を惜しみ惜しみ捨つ
いちにちをきよらにあれと願へれどすでにたばこを吸ひてしまへり