花の詩情(3/6)
老と桜
老いて来ると老木の桜の風情に一層心ひかれる。自分の来し方を思い合せることになる。老いてなお花を咲かせる桜の木を見て湧き起るのは、よく長生きして美しい花を咲かせている、自分もあやかりたい、という感情である。ただ稀ではあろうが小林一茶の俳諧歌のように、浅ましいとか煩わしいという拗ねたような感情もある。
さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉
桜咲(さき)桜散りつゝ我老ぬ 高桑闌更
身に更にちりかかる花や下り坂 蕪村
浅ましの老木桜や翌が日に
倒るるまでも花の咲く哉
倒るるまでも花の咲く哉 一茶
よるとしや桜のさくも小うるさき 一茶
この時、一茶はまだ四八歳。六五歳の生涯からすれば、未だ老いこむには早いと思われるが、当時の年齢感覚であろう。
老いて桜を見ると一層自分の身に引きつけてあれこれ思うのは、日本人に共通した詩情である。以下には現代俳句から。
老いてなを思い寝のあり薄桜 永田耕衣
年寄の一つ年とる花見して 平畑静塔
狼毫の筆をとりゐしさくらかな 岡井省二
雪月花わけても花のえにしこそ 飯田龍太
とりわけ川崎展宏は、七十歳過ぎてから桜の老木に強い関心を抱いていたことが、次のような作品からわかる。二句目以降は七六歳から八二歳までの間の作品。
老いさらばへ支柱に枝垂れ桜かな 川崎展宏
はらはらと洞(うろ)へ花びら老桜 川崎展宏
老桜の幹黒々と濡れゐたる 川崎展宏
老桜の分れたる幹残花かな 川崎展宏
葉に交じる余花を見せたる老い木かな 川崎展宏
九二歳の長寿を全うした山口誓子の桜花の俳句は、七八歳以降に多くなる。以下の作品には、都市の汚染を美しい桜花と対比させて、現状を憂いているようだ。なお「通り抜け」とは、大阪造幣局の桜並木を指す。
老桜幹黒くして花咲かす 山口誓子
淀川の汚れは見ずに通り抜け 山口誓子
老いても花見にくる男女を詠んだ句として、
業平も小町も老いぬ花の句座 長谷川櫂
これは吉野山での花見句会の情景で、そこに参加した老人の男女を、在原業平や小野小町に見立てたもの。