花の詩情(4/6)
病と桜
病状の度合いによって桜に対する思いは違ってくるであろう。眼前に花を見られる場合もあれば、病床にあってただ花の季節が来たことを知り、思いを馳せる場合もある。
正岡子規の場合、二二歳の時に始った喀血の結核の病状が進行して、三十歳で病床につくことになる。
いたつきに三年こもりて死にもせず又命ありて見る桜かな
正岡子規
子規が自由に行動できた年代には、花見の俳句が多いが、以下には病床で過ごした三十歳以後の作品をあげる。
寝て聞けば上野は花のさわぎかな 子規(30歳)
我病んで花の発句もなかりけり 子規(32歳)
いたはしき花見ぬ人の痩せやうや 子規(34歳)
たらちねの花見の留守や時計見る 子規(36歳)
これは母・八重が息子・子規の看病の合間に、上野に花見に行った折の作品である。作品からは不明だが、多分、妹の律と一緒だったろう。子規は二人が花見に出かけてゆくことを薦め喜んだに違いないが、帰宅の時間を気にしていたようだ。子規はこの秋に三六歳の生涯を閉じた。
ちなみに上野が現在のような桜の名所としての道を歩み始めたのは江戸時代の初期。徳川家の菩提寺として上野に寛永寺を建立した天台宗の僧・天海が上野の山の景観向上のため,奈良・吉野山から山桜の苗を取り寄せて山内に植えさせたのが最初とされている。松尾芭蕉や山口素堂が生きた時代には、上野はすでに花の名所になっていた。ただ桜の下での飲食が禁じられていた時代もあった。
小僧来(きた)り上野は谷中の初桜 山口素堂
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
江戸中や上野の花にかし座敷 神田蝶々子
病にもいろいろある。死病と言われていたものも薬品や治療技術の進歩によって、長寿を全うできる場合もある。ただ若くして病に罹ると、望んでいた勤めや職業を断念せざるを得ないことは多い。病の種類が分っていないと死を意識することも多かったであろう。
花咲いて死にとむないが病かな 小西来山
作者は『近世畸人伝』に載った江戸時代の俳人。酒を好み、物事にこだわらない人物だったという。
チチポポと鼓打たうよ花月夜 松本たかし
作者は能役者の家に生まれたが、病弱のため家業を断念。朧な花月夜に鼓を打ってみたいという夢幻世界。
生きてゐる吾生きてゐる桜見る 山口誓子
山口誓子は、二三歳から四十歳すぎまで肺尖カタルや肺炎で病みがちであった。この句は晩年の頃のもの。
純白の医師目睲むれば花濁る 飯田龍太
飯田龍太は、八六歳まで生きたが、大学生の頃肺浸潤を患って療養したこともある。花の俳句は五十歳までに多いが、それ以降は少なくなる。これは四四歳の時の句。前年には腰部激痛で二カ月余り入院していた。
月明の花の病臥に村思ふ 飯田龍太
これは病臥の母・菊乃の思いを詠んだもの。その後、母は逝去。
空鬱々さくらは白く走るかな 赤尾兜子
病者の目に映る空模様とその下に散る白い花弁の情景から、不吉な切迫した内面意識の反映を見る。
残生やひと日は花を鋤きこんで 飴山 實
飴山 實は、腎不全のため七三歳で死去したが、この句は最晩年のもの。
而(シカウ)シテ見るだけなのだ桜餅 川崎展宏
川崎展宏は八十歳の時、嚥下機能低下のために胃瘻造設手術をしたが、この句はその頃の作。