天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

花の詩情(5/6)

西行の墓地(河内・弘川寺にて)

死と桜 
 桜の花の咲く頃の野辺送り(葬送)を見かけると、亡くなった人が羨ましくなる。送る人達も悲しみながらも逝く人を祝福しているようにも思える。
     夕空を花のながるる葬りかな      飴山 實
     花どきの峠にかかる柩かな      大峯あきら
     死人(しびと)焼く火加減上げて山桜   茨木和生
桜は死を荘厳する花という思い・詩情が感じられる作品を以下にいくつかあげてみる。
     畠山の奥に墓あり遅ざくら       比良暮雪
     世に盛る花にも念仏申しけり        芭蕉
     花にうづもれて夢より直に死なんかな  越智越人
     死支度(しにじたく)致せ致せと桜哉     一茶
     花散るや寂然として石佛        正岡子規
     礼拝(らいはい)す仏のために咲く桜   山口誓子
     墓ありて人のぼりゆく花の山      飴山 實
     一休み浄土に花を鋤きこんで      川崎展宏
これは飴山 實を偲んで、彼の句「残生や一日は花を鋤きこんで」を本歌取りしたもの。
 こうした感情は、次の有名な歌を根源として、延々と現代まで流れている。
  ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 
                   西行新古今和歌集
日本人が共通にもつ花の詩情のひとつと言える。
     初ざくら其きさらぎの八日かな       蕪村
     いざさらば死(しに)ゲイコせん花の陰    一茶
     春死なば花に迷わん後の闇       森川許六
蕪村の句は六四歳の時の作で、一茶の句は四六歳の時のもの。いずれも西行歌を踏んでいることは明らか。ところが一茶には西行歌を反転した内容の次の句がある。
     花の陰寝まじ未来が恐(おそろ)しき     一茶
一茶歳晩年六五歳のもので辞世とも言える。一茶らしい捻り様である。
     骸骨の上を粧(よそ)うて花見かな    上島鬼貫
     花咲けば命一つといふことを     大峯あきら
     前世をさくらと思ふ身のさぶさ    上田五千石
     桜蕊降る一生が見えて来て       岡本 眸
     生誕も死も花冷えの寝間ひとつ    福田甲子雄
     花巡る一生のわれをなつかしみ     黒田杏子
 江戸時代になって桜は大和魂・武士道と結び付きナショナリズムの象徴になった。その嚆矢が次の国学者本居宣長の歌である。
  敷島のやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花  本居宣長
この歌が詠まれる数十年前の江戸時代中期(1716年頃)に書かれた書物『葉隠』に「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節がある。古今集に最初に現れる桜の歌が、散ることを惜しんでいるように、桜についてはもともと「散る」ことに日本人の意識が集中していた。こうして武士(もののふ)の死に様は桜の散り様のようでありたい、という考え方に発展していった。それは辞世に現れた。
  時にあはば散るもめでたし山桜、めづるは花の盛りのみかは
                       佐久間象山
     動かねば闇にへだつや花と水      沖田総司
     逝く空に桜の花があれば佳(よ)し    三波春夫
     モガリ笛幾夜もがらせ花二逢はん     檀一雄
 明治から昭和の戦中にかけて、桜は軍人のシンボルになった。軍歌「同期の桜」「あゝ紅の血は燃ゆる(学徒動員の歌)」などに顕著である。太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時には遺書に次の句がよく引用されたという。
     散る桜残る桜も散る桜        (伝)良寛
ちなみに特攻隊は考案された当初から、戦闘機や軍隊の名前に桜を冠したものが数多く採用されていた。航空特攻兵器として採用された小型のグライダーには「桜花」という名前がつけられ、部隊には、山桜隊、初桜隊、若桜隊、葉桜隊などである。次に特攻隊員の辞世の一例をあげる。
  散りぎはは桜の如くあれかしと祈るは武士の常心なり
                       小林昭二
作者は、二等飛行兵曹で第一護皐白鷺隊に属していた。享年二十歳。
戦争の思い出に桜が多く関わっているのも日本固有の現象である。
     花の悲歌つひに國歌を奏でをり     高屋窓秋
     長き長き戦中戦後大桜         三橋敏雄
     死の国の遠き桜の爆発よ        三橋敏雄
     ハナハトマメ花と散れよと教へられ   川崎展宏
ハナハト読本は、戦前に使用された国語読本の愛称で、正式名称は『尋常小學國語讀本』。