天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

相聞歌―時代と表現―(2/5)

岩波文庫から

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ここでは複数の男と関係したり妻子ある男と通じて子供を作ってしまった女性歌人の相聞歌をとりあげる。初めに和泉式部の場合。
和泉式部が関係した男性は多数いたと伝わるが、主には次の五人のようである。
(1)最初の夫・橘道貞(娘・小式部をもうけた) (2)弾正宮為尊親王親王死去により恋は二年ほど) (3)帥宮敦道親王(若君・石蔵宮を得たが、帥宮の死により親交は四年ほど) (4)右大将兼東宮傅の道綱(式部を好色の対象と見ていたので、深い関係にならない) (5)藤原保昌と再婚(保昌は二十歳年上)
結果として帥宮敦道親王との相聞歌が多く残されており、『和泉式部日記』に詳しい。和泉式部の歌の特徴的修辞を見ておく。*に注釈を書く。

先ず比喩について。『後拾遺集』から二首例をあげよう。
  見し人に忘られてふる袖にこそ身を知る雨はいつもをやまね
*「忘られてふる」の「ふる」は「経る」「降る」の掛詞。「身を知る雨」
 は、身の程を知らせてくれる雨のことで、「涙」の隠喩である。
 本歌に『古今集在原業平の「数々に思ひ思はずとひがたみ身をしる雨は
 ふりぞまされる」がある。
  黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
*「黒髪のみだれ」は女の狂おしい情念の象徴。黒髪は万葉集にも身体の
 一部として詠われているが、心のかたちとして詠う和泉式部の工夫は、
 女の歌の歴史を縦に貫いて、近代の与謝野晶子の『みだれ髪』にまで及ぶ。
 なお「黒 髪の」は「乱れ」にかかる枕詞でもある。
次に奇抜な着想について。『和泉式部集上』から二首例をあげる。
  つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに
*天空から恋人が降って来るとは、驚くべき発想である。
  君恋ふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬ物にぞありける
君恋しさに心は粉々に砕けるけれど、その一欠けらさえも私は失わない、
 と言われたら男はもはや逃れられないはず。


現代の女性歌人俵万智の場合を考える。関係のあった男性については公になっていないので、発表された短歌作品だけから想像することになる。告白、疑問、報告、妬み、決意 等の内容によってかってに詞書を想像してみれば、以下のような歌は問い掛けともなるし返しにも成り得る相聞歌である。古今集・恋三の位相に相当する歌が多い。
  落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し
                     『サラダ記念日』
  『あい』という言葉で始まる五十音だから傷つくつくつくぼうし
                    『かぜのてのひら』
  日曜はお父さんしている君のため晴れてもいいよ三月の空
                   『チョコレート革命』
  どこまでも歩けそうなる革の靴いるけどいないパパから届く
                      『プーさんの鼻』
  もう会わぬと決めてしまえり四十で一つ得て一つ失う我か
                      『プーさんの鼻』
  次に会うときは長袖かもしれずアニエスベーで買うワンピース
                     『オレがマリオ』
  今のおまえをとっておきたい海からの風を卵のように丸めて
                     『オレがマリオ』
いずれも分り易い作品なので註釈は省略する。初めから妻子ある男に恋をしたのか知るところではないが、男への一途な恋心、不倫の末にシングルマザーになったこと、男とは別れようと決心したこと、しかしその後も時々会っていることなどの過程が口語あるいは文語混じりで素直に詠われている。最後の歌はわが子への相聞である。
明治以来、口語短歌は種々試みられたが、俵万智によって相聞歌における口語の力が立証されたと言ってよい。