古典短歌の前衛―酒井佑子論(9/11)
□病の歌
咲ききりて五日を保つ薔薇の花わが腹腔の腫物 (しゆもつ)
育つや 『地上』
*薔薇の花を見て作者の腹腔に生育する癌細胞を思ったのだが、
「咲ききりて五日を保つ」という措辞には、癌細胞にもピーク
があるのでは、という楽観もあるようだ。
恰も夏終らむとして身に染みし鋼の匂ひ濃き中に病む
*ちょうど夏の終る時期に入院しているのであろう。体験のない
読者としては「鋼の匂ひ」が理解不能だが、手術後の金属の
補助具が身近にあるのだろうか。
わかくさの小鹿(をしか)てふ町に癌患者五人の中に三夜いねにけり
出奔の意志もちて甲州道(じ)西へ走る心おほかたは病む夫におき
『流連』
*「出奔の意志」とは穏やかでないが、まさか夫婦喧嘩して飛び出したか。
でも心中では、ほとんど病の夫を気遣っているのだ。
六月(むつき)病み癒えてやうやく今朝出でゆく虹彩の色淡くなりたり
*虹彩は、眼球の角膜と水晶体の間にある輪状の薄い膜。その色合いが分る
とは、多分自分のことではなく、ご主人のことだろう。
ゆくりなく梶ヶ谷をわが過ぐる時恋ほしかの丘に病みゐましし君
ナースステーションへ外泊届目的は「猫に逢ひに」と書きて来にけり
『矩形の空』
*入院中だが、外泊が許される場合もあったのだろう。手術の前か後か
不明だが、愉快な内容から作者の心の余裕が感じられる。
おとなしくなりたる癌に言問ひて手術待つ日日(ひび)のただ無為
赤いウサギのやうに跳ねわが動脈血白いナースの頬を汚しぬ
*どの部位の手術なのか不明だが、動脈の血がほとばしった状況が「赤い
ウサギのやうに跳ね」という直喩でリアルに生々しく表現されている。
退化してわれながら清き一身を仰のけに乗す診療台に