天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句と短歌の交響(6/12)

寺山修司

俳句からの盗作とされた寺山修司の短歌。では、それらをコラボにしたとしたら、評価は変るであろうか? 俳句を詞書としてみるのである。
  一本のマッチをすれば湖は霧        富沢赤黄男
  めつむれば祖国は蒼き海の上        富沢赤黄男
  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
                        寺山修司
「身捨つるほどの祖国」に、俳句にはない寺山の独自の思いが現れていて、秀れた歌になっている。
  人を訪はずば自己なき男月見草       中村草田男
  向日葵の下に饒舌高きかな人を訪はずば自己なき男
                        寺山修司
短歌では、月見草を向日葵に替え、饒舌高きを加えた上句が目新しい点だが、「人を訪はずば自己なき男」の解釈が俳句の場合よりも曖昧になってしまったようで、不満が残る。饒舌な男は自己主張が強いのではないか。
  わが天使なるやも知れず寒雀         西東三鬼
  わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る
                        寺山修司
寒雀を小雀に置き換えて、それを(鉄砲で)撃ち、硝煙を嗅ぎながら帰っている情景に転じた。小雀としたところに残忍性が強調されている。俳句では寒雀に対する愛情があふれているが、寺山はそれを反転させてみせた。
上句に心理的葛藤を組み入れた点に寺山らしい短歌になった。