神を詠む(7/9)
われの神なるやもしれぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る
寺山修司
捨つるべき捨てよといふは神のこゑ生命(いのち)は二つあるものならず
木俣 修
わが神(しん)の嘆きのすゑの薄明り一(いち)瀧(ろう)落ちて羊歯を濡せり
小中英之
わがごときさへ神の意を忖度す犬馬(いぬうま)の小さき変種を見れば
佐藤佐太郎
苦しむということ神に近づくや春雪は降るかの暗きより
三枝浩樹
面影と御言葉深く抱くとき亡き人はわれの守護神となる
中村規子
我らみな「神の掌(て)の上」と諾ひしはひと健やかに在りし日なりき
山中登久子
寺山修司の歌は、下句から虚構と判る。ただ、銃で鳩を撃ち殺す冬の情景を想像すれば、このような心情をもつかもしれない、と肯える。
木俣 修の歌は、生きているうちに自分にできることは限られていることを諭しているのだ、
小中英之の歌は、滝水が羊歯を濡らす情景を見た時の心情(嘆き)を詠ったものだろう。
佐藤佐太郎の歌の「さへ神」は、村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ塞の神を指すか。犬や馬の変種をみたら、村には入れたくないなあ、と思うのだろうか。ちょっと難解。
[追伸]「短歌人」の斎藤寛さんから、この歌の解釈につきメールを頂いた。「私のような者でさえ神の意を忖度します…、」ではないか、という。それが正解のように思われる。私の解釈は、「わがごとき・さへ神の意を・忖度す・いぬうまの小さき・変種を見れば」と57587の韻律に沿ったものなので、妙なことになってしまった。斎藤さんは、75587という韻律で読んだ解釈をしたのであった。
三枝浩樹の歌の上句が高邁にすぎて共感しにくい。
中村規子の歌は、亡き人との親交を思わせて分かる気がする。
山中登久子の歌で、“我らみな「神の掌(て)の上」” といった人が誰だったのか、分らない。すでに故人のようだが。