天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

甲斐の谺(12/13)

蛇笏句碑「芋の露連山影を正しうす」

(2)同一季語の句の響き合い(続き)
  老鶏(らうけい)の蟇ぶらさげて歩くかな      蛇笏『山響集』
  裏返る蟇の屍に青嶺聳(た)つ            龍太『今昔』
老いた鶏が嘴に蟇を咥えて歩いている。咥えなおそうとして地面に落した。腹を見せて裏返った蟇の屍の向うに夏の青い嶺が聳えていることよ。
  降る雪や玉の如くにランプ拭く           蛇笏『雪峡』
  山の雪灯にめぐまれて新婚(にひめとり)     龍太『百戸の谿』
山里に雪が降って婚儀が近づいている。新婚のために家中を明るくしてやろう。そのランプの玉を大切に念入りに拭いていることだよ。
  紅爪(べにづめ)の五指をそろへて雪見舞       蛇笏『雪峡』
  雪風に鼻も飛ばさず女来る            龍太『麓の人』
雪が風に舞う中を、女は鼻水も出さずにやってきた。部屋に通されると赤いマニキュアを付けた指を丁寧に揃えて「雪が降って大変でございましょう」と挨拶をしてくれた。
  雪峡(せつけふ)にしづもる家族薺粥(なづながゆ) 蛇笏『家郷の霧』
  その年のその日のいろの薺粥            龍太『今昔』
雪深い山峡の地に住む家族にとって薺粥は新年を寿ぐ食べ物。年によりまた食べる日により色も味もちがって感じられる。
  冬川に出て何を見る人の妻           蛇笏『家郷の霧』
  鷄毟(とりむし)るべく冬川に出(い)でにけり   龍太『百戸の谿』
もはや説明は不要。山里に暮らす家族の生活の一こまになる。
  藪喬木(やぶたかぎ)鴉がとびて山に月       蛇笏『椿花集』
  外風呂へ月下の肌ひるがへす          龍太『百戸の谿』
藪喬木から鴉が飛び出して月のかかる山へ向かったわけは、月光の下、裸で急いで家の外にある風呂に駈けだしたからである。
  誰彼(だれかれ)もあらず一天自尊(じそん)の秋       蛇笏『椿花集』
  吊鐘のなかの月日も柿の秋       龍太『春の道』
親友・知人の誰彼もこの世にはなく、自分一人になってしまった。命を尊び自愛しなければと思う秋であることよと詠んだ父に対して、大きな吊鐘のなかに過ぎた月日を思い柿が実る秋と受ける息子・龍太の柔軟で洒落た対応。
以上のような対比は、他にもたくさん作ることができ、同一季語の両者の俳句が、実によく響き合っていることが実証される。