天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

時よ、止まれ

 ドイツの大詩人ゲーテは、「全ての詩は機会詩である」と言ったという。この世の一瞬間は、あまりに美しく個人にとって生涯にただ一度しかない機会なのだから、そこから生まれる詩はすべて機会詩ということになる。これでは、分類に使えなくなってしまう。ただ、詩というものは、何も特定の場面で詠まれるのではない、あらゆる事象・事件が詩の対象になる、という認識を広めた。こうして社会詠や時事詠の分野も拓かれたのである。
 機会詩でない作品はあるのだろうか? ある。それは、例えば、「ホメーロス」のような叙事詩である。短歌について見れば、古典和歌で盛んだった題詠であり、現代短歌で始まったテーマ詠である。それぞれの代表的歌人をあげれば、藤原定家であり塚本邦雄である。藤原定家に「最勝四天王院名所障子和歌四十六首」があり、塚本邦雄ランボオヴェルレーヌの同性愛関係をテーマにした『水銀傳説』があることを考えれば十分であろう。
 叙事詩にせよ題詠にせよあるいは文字通りテーマ詠にせよ、あらかじめテーマが設定されているのだ。眼前の事象に触発されて、その場の感懐を歌った詩ではない。つまり機会詩ではない。
 ちなみに、古典和歌の時代に題詠が重きをなした原因として、古今集以降の勅撰和歌集で部立が精緻になったことが考えられる。詠む対象・場面、季節を規定してしまう。今でいう時事詠は入る余地がないか、雑の部に仕分けられ主役に成り得なかった。ただ、ひとり西行は天下大乱をわずかな短歌に残した。「死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなる人のかずつづきつつ」「木曾人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな」など。
 留意すべきは、機会詩も類似の事象が重なると類型化し、題詠的様相を呈してくる。例えば、辞世の詠草やイラク戦争詠など。

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