出でよ世紀の西行(2/6)
一方塚本は、近代戦争における国家と軍、敗戦の悲惨をつぶさに見つめる生活を送っていた。戦後すぐに総合商社に就職したので、経済的には安定した状態にあった。前川左美雄に師事し、良きパートナー杉原一司に出会って短歌にのめり込み、新しい方法論を求め始めていた。杉原との付き合いは、彼の逝去によりわずか三、四年で終わるが、彼に鼓舞されて成った歌群は、二十九歳の時『水葬物語』として結実する。
割禮の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ
ひとでらは昔抱きし軍艦のかの黒き腹戀ひつつ今日も
西行は出家して何を目指したのであろう?彼の生涯を見てもこの疑問は解けない。歌枕を訪ねて歌の道を極めようとしたとも思えない。塚本の明確な意志と比べるとまことに心許ない。西行が二十八の時に、恋い焦がれた待賢門院璋子が四十五歳で没した。西行は、高野山、吉野に籠もって本格的に仏教の修行に入る。と同時に、吉野の花に心を奪われ、膨大とも言える花の歌を詠んだ。彼の三十代、四十代は、保元・平治の乱が起こり、武士が台頭し皇族・貴族の派閥と組んで政権をめぐって殺しあっていた。鳥羽法王が亡くなり、崇徳院は讃岐に流される。西行は貴族の誰彼に出家を勧めて廻った。法王の大喪に、崇徳院の剃髪にはせ参じている。出家の身を利用し、敵味方の思惑を越えた心の赴くままの行動である。
寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
諸共にわれをも具して散りね花浮世をいとふ心ある身ぞ
西行は仏教思想を学んだが、説法者にはならなかった。歌にも説法の臭みは無い。あくまで自分の心の在りようを詠う。
とふ人も思ひたえたる山里のさびしさなくは住みうからまし
はるかなる岩のはざまに獨ゐて人目思はでものおもはばや