天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

平安・鎌倉期の僧侶歌人(6/17)

能因(永延2年(988年) ~ 永承5年(1050年)あるいは康平元年(1058年))  
 26歳の時出家し、摂津国に住む。奥州・伊予・美作などを旅した。直接の原因は不明だが,自己を愛し,積極的に生きるための出家であったことがわかる。彼の作歌は,実生活に即したものが多いが,僧侶の生活を詠んだ歌は少なく,道統や修行の詳細は明らかでない。

[生活感]
  あらし吹くみ室の山のもみぢばは竜田の川の錦なりけり        後拾遺集
  山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける          新古今集
  心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを       後拾遺集
[旅の感懐]
  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関           後拾遺集
 *「白河の関」は、奈良時代から平安時代に機能していたが、律令制の衰退と共に

  関所としての機能を失い、芭蕉が訪れた頃は正確な場所は分からなかった。

  現在の場所に確定したのは松平定信で、芭蕉から100年も後のことであった。

  筆者が訪れたことは、2016年11月24日のブログで紹介済み。有名な歌枕だが、

  能因のこの歌は、特によく知られている。


  よそにのみ思ひおこせし筑波嶺(つくばね)のみねの白雲けふ見つるかな 新勅撰集                     
  世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして       後拾遺集
  夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり        新古今集
[人生観]
  世の中を思ひすててし身なれども心よわしと花に見えぬる       後拾遺集
 *藤原頼通の屋敷の花盛りに、能因がこっそり花見に行ったことを主の頼通が聞き
  つけて、どんな歌を詠んだのかと聞いてきたのに応えた歌(修行の心が弱いと花に
  見られてしまいました)。

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白河の関

平安・鎌倉期の僧侶歌人(5/17)

素性(生年不詳 - 延喜10年(910年)?)      
 父の遍昭(遍照とも)と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。歌風は軽妙洒脱の中にも優美さがあり,静止的で絵画風な歌の中にもその一端がうかがわれる。

[生活感]
  あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ    拾遺集
  見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける         古今集
  雨ふらば紅葉のかげにやどりつつ龍田の山に今日は暮らさむ   続古今集
  秋風に山の木の葉のうつろへば人のこころもいかがとぞ思ふ    古今集
[旅の感懐]
  思ふどち春の山べにうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか    古今集
  いそのかみふるき宮この郭公こゑばかりこそ昔なりけれ      古今集
[人生観]
  いづくにか世をばいとはむ心こそ野にも山にもまどふべらなれ   古今集
 *「いったいどこで遁世の暮らしを送ろうか。身体は一所に定住したところで、

  心の方は野にいても山にいても惑うに決まっているのだから。」世俗を捨てた

  身とはいえ、その心は厭世とともに耽美にも揺れ動く、という。

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龍田山 (webから)

平安・鎌倉期の僧侶歌人(4/17)

恵慶(えぎょう) (生没年未詳)
 平安時代中期の僧、歌人大中臣能宣,紀時文,清原元輔平兼盛曾禰好忠安法法師らと交流し,和歌史上先駆的な作品を詠む。

[生活感]
  八重(やえ)葎(むぐら)しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり                 

                                 拾遺集
  桜ちる春の山べは憂かりけり世をのがれにと来しかひもなく    恵慶集
  わが宿のそともにたてる楢の葉のしげみにすずむ夏は来にけり  新古今集
  ふるさとへゆく人あらば言伝(ことづ)てむ今日うぐひすの初音聞きつと      

                                 恵慶集
[旅の感懐]
  ふるさとへゆく人あらば言伝(ことづ)てむ今日うぐひすの初音聞きつと     

                                 恵慶集
 *「故郷へ行く人があったなら、伝言しよう。今日逢坂で鶯の初鳴きを聞いたと。」
  わぎもこが旅寝の衣うすき程よきて吹かなむ夜はの山風     新古今集
 *「我が妻の旅寝の衣は薄いので、避けて吹いてくれ、夜の山風よ。」

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うぐいす



 

平安・鎌倉期の僧侶歌人(3/17)

遍昭弘仁七~寛平二(816-890))
 桓武天皇の孫。平安時代初期の天台宗の僧・歌人六歌仙および三十六歌仙の一人。僧正の職にまで昇り、歌僧の先駆の一人である。
 ところが、紀貫之による遍昭の評は、「僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし」という厳しいものであった。
 遍昭の歌風は出家前と出家後で変化しており、出家後は貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌(例えば古今集、「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」)も詠んでいる。

[生活感]
  わび人のわきてたちよる木(こ)のもとはたのむかげなくもみぢ散りけり  古今集
 *わきてたちよる木のもと: ここと決めて立ち寄る木の下。
  ちりぬればのちはあくたになる花を思ひしらずもまとふ蝶(てふ)かな   古今集
  いまさらに我はかへらじ滝見つつ呼べど聞かずと問はば答へよ      後撰集
[旅の感懐]
  わび人のすむべき宿とみるなへに歎きくははる琴のねぞする       古今集
 *「侘び暮しをしている人が住んでいそうな家だなと思って見ていたら、いっそう

  溜め息の重なる琴の音が聞こえてきた。」という意味だが、万葉集

  「琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋(したび)に嬬(つま)やこもれる」

  という先行歌がある。
[人生観]
  すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん     新古今集
 *「葉末に留まっている露と、根もとに落ちた雫と――人に後れたり、人に先立って
  亡くなる、この世の無常の例なのだろう。」

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琴 (WEBから)

平安・鎌倉期の僧侶歌人(2/17)

喜撰(生没年未詳)
 平安時代初期の真言宗の僧・歌人。宇治山に住んだ。六歌仙の1人。古今集仮名序には「ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」と評されている。次の二首の歌のみが伝えられる。

[生活感]
  わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり      古今集
 *しかぞすむ:このように住む。世をうぢ山:「世を憂」「宇治山」の掛詞。
[旅の感懐]
  木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりにあまの海へ行くかも     玉葉
 *『伊勢物語』の「はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたにあまのたく火か」と
  同趣向。

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宇治山 (WEBから)


 

平安・鎌倉期の僧侶歌人(1/17)

はじめに
 花鳥風月の自然環境に生きる人間の精神世界を詠んだ古典和歌の完成は、勅撰和歌集の終焉により示された、とも考えられる。その完成度を概観する手立ては、いくつもある。本格的には、万葉集を加えた全勅撰和歌集を分析する方法。もっと手軽には、藤原定家小倉百人一首による方法。これは周知のように、飛鳥時代天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び出したものである。
 本文では、さらに絞って僧侶の身分にして優れた和歌を詠んだ歌人たちを取り上げてみたい。
 平安・鎌倉期には、歌人として有名な僧侶が多い。戦に明け暮れ、政権交代も頻繁な不安定な時代にあって、現実世界から隠遁し僧侶として一生を送ることは、有力貴族や豪族の子弟にとって、理想的でもあった。西行のように仏教の修行を和歌の修行と同一視した場合が典型的であろう。彼らは古典和歌(短歌)を完成させる環境にあったといっても過言ではない。
 こうした僧侶歌人たちが詠んだ和歌から、彼らの生活感、旅の感懐、人生観 などにつき読み取ってみたい。なお、世俗を解脱した僧侶の立場という観点から、相聞歌・恋歌は省略した。
生没年が未詳な人達もいるが、一応、年代順にたどっていこう。とりあげる僧侶は百人一首に載っている十二人に頓阿法師を加えて十三人である。十二人は「坊主めくり」という遊びで、お馴染みの人も多いはず。作品の下の*印のところは注釈である。

 古典和歌(短歌)の完成度を知ることによって、近現代の短歌が目指したもの、更には将来の短歌に残された課題が明確になると信ずる次第である。

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百人一首    坊主めくり

俳句は取合せ(10/10)

おわりに
 「二物衝撃」の章で述べた芭蕉と蕪村の五月雨の句の比較について再考しておこう。
芭蕉句は、俳句紀行「奥の細道」の最上川の条に出てくるものであった。句の前に書かれた文章によって周辺の情景が具体的に描写されるので、俳句の情緒が一段と心に浸みる。独立した俳句とすると、先に触れたように、最上川が動く、即ち他の川に差し替えられる。よって文章と一体として鑑賞されるべき作品なのである。この一句を読むたびに紀行文に書かれた情景が思い浮かぶ、という効果を狙った文藝と言える。芭蕉の俳句作品には、紀行文の中で鑑賞すべきものが多々あるので、注意を要する。
 一方、蕪村句は、一句独立した作品として鑑賞してよい。それで先に述べたように読者に衝撃を与える力をもっている。芭蕉と違って蕪村は、「総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。」(正岡子規俳人蕪村」)であった。
 俳句の基本作法として取合せにつき分析してみたが、連結語(とりはやし)をいかに工夫するかが究極のポイントになることが分った。取り合せる二つの事物(一つは季語・季題)の選択と連結語(とりはやし)の措辞に心をくだくことになるのである。 

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『おくのほそ道』 岩波文庫