天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

韻文とは

飴山実全集の内の「小長集」を読み終えたが、のっけから散文調の句が目立つ。
       小鳥死に枯野よく透く籠のこる
       枝打ちの枝が湧きては落ちてくる
       どの椿にも日のくれの風こもる
       走る音してはガラスを凧よぎる
       釘箱から夕がほの種出してくる
       畦を塗りあげて耕運機でかへる
等々。これらの例では、言葉の繰返しはないので韻を踏んではいない。明快な切れがあるわけでもない。
 俳句が韻文であるための条件は何か?あるいは俳句における韻律とは?という問に立ち戻ることになる。五、七、五で切って読めれば、五音が繰り返しているので調子はでるから韻文だ、というしかあるまい。だが、句跨りや句割れが生じている。
自由律俳句のように、片言でずしりと心に響く詩もある。あまりにも有名だが、
      うしろすがたのしぐれてゆくか    種田山頭火
      咳をしてもひとり          尾崎放哉

 俳句の定義に拘るよりは、こころの琴線に触れるかで評価するしかあるまい。で、はじめの例句は、さっぱりわが琴線に触れてこないので困っているのだ。
 「小長集」にも、もちろん次のような佳句はある。
      うつくしきあぎととあへり能登時雨
      金魚屋のとどまるところ濡れにけり
      石見路のしぐれやすさよ子持鮎

散文ではこうした作りはしないので、韻文であることは明らかである。