天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

現代の定家(3)

 塚本邦雄が、定家の戀の歌から究極の四首を選んでいる。この四首を越え得る絶唱佳吟は王朝和歌、全勅撰集を通じていくばくもあるまい、と絶賛している。その所以の説明をこれも部分的に引いておこう。塚本の鑑賞の華を見る思いである。

  あぢきなくつらき嵐のこゑも憂しなど夕ぐれに待ち習ひけむ
  *悲戀、男の創作した女歌。「など」の未練がましさ、
   「けむ」の推量、疑問で陰陰と怨みの尾を引く技巧も、
   類歌を斥けて異様な後味を生んでいる。


  年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ
  *悲戀、失恋の呪詞。「年も経ぬ」といふ萬斛の恨みを含んだ
   初句切が「よその夕ぐれ」の重く沈んだ體言止結句にうねり
   つつ達し、ふたたび初句に戻る呪文的構成が出色であり、
   一讀慄然とするばかりの妖気が漂ふ。


  かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ
  *愛の思ひ出、相手は不在。黒髪の目と掌にあたへる感覚。
   「すぢごとに」とはよくも言ひ得たもので、その巧みさには
   讀む方も溜息が洩れるばかりである。第二、三句はまさに
   この歌のいのちであり、短調ソロの最高音ピアニシモである。
   この十二音のために一首は妖しい光澤を放つのだ。


  移香の身にしむばかりちぎるとてあふぎの風のゆくへ尋ねむ
  *耽溺。香に集約した官能美の極致。「移香の身にしむばかり
   ちぎるとて」というこの言葉の省略の果てに匂ひたつ微光を
   おびた悦楽に、私はほとんど眩暈を覺える。眩暈とは、
   言葉がこれほどまでに隈もなく愛欲の翳を照らし出し、
   しかもすがすがしくあり得ることへの戦慄をも指す。


        大寒の夕陽にぬめる青海かな