天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大伴家持(3)

 先に注文しておいた残り2冊(多田一臣『大伴家持―古代和歌表現の基層』と田中阿里子『悲歌 大伴家持』)が届いたので、3冊を並行して読んでいる。『大伴家持―古代和歌表現の基層』に期待されるのは、多田が「はじめに」で述べている表現史的な視点である。即ち、家持の作に体現される後期万葉のさまざまな問題を、その表現の分析を通して具体的に考えていくこと、である。

 今回は、連作の世界「秋歌四首」について、以下に多田の考えを紹介しよう。但し、「連作」と判断したのは、著者の多田である。家持は「秋歌四首」と書いているのみである。四首とは、家持が天平八年秋九月に作った次のもの。

  ひさかたの雨間もおかず雲隠り鳴きそ去くなる早稲田雁がね
  雲隠り鳴くなる雁の去きて居む秋田の穂立繁くし念ほゆ
  雨隠り情(こころ)いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
  雨晴れて清く照りたるこの月夜また夜くたちて雲なたなびき


九月の時雨の「雨隠り」から生ずる恋人へのいぶせき思い、その鬱情を、一、二首では雨間に鳴き渡る雁の行方に託し、また三首目では隠りを経過する中に見いだされた外界の変化への感動としてうたい、さらにまた時間の推移する中、四首目では明るく照らす月の光に恋人への通いを思う、――このような四首の表現の中に、恋の思いが微妙な陰影を宿しつつたくみに重ねあわされている。連作に仕立てあげられることで、外界の景とたくみに呼応する作者の心情がみごとに描きだされているのであり、そこにこの四首の表現価値がある。


 以上が、「秋歌四首」を多田が連作と考える理由である。言葉の連携としては、

雲隠り鳴き・・早稲田・・雁がね
 → 雲隠り鳴くなる雁・・秋田の穂立・・繁くし念ほゆ
 → 雨隠り・・情いぶせみ
 → 雨晴れて・・雲なたなびき


 「連作」ということは、作者自身が明示しないかぎり読者には通常不明である。短歌にせよ俳句にせよ、月刊雑誌で発表されている複数個の作品には、「題」がついている。だが、通常読者は連作としては鑑賞せず、一首あるいは一句を独立して解釈する。作者のほうでも題をつける時、作品の中の言葉を選ぶことが多く、相互の作品に必ずしも関連はない。その点、家持の「秋歌四首」は、言葉の連携が緊密である。
もともと古典和歌のやりとりでは、言葉と情の連携が基本になっている。まして連歌、歌仙においては言葉による情景の展開をたのしむ。それを個人の短歌や俳句で実現したものが連作と呼ばれる。
 「連作」の評価法については、未開拓であり、ほとんど手付かずといってよい。連歌や歌仙の評価法に立ち戻り、方法論として整理してみると新しい展望が開けるかもしれない。