正岡子規の歌と句の対応
歌人でありながら俳句をつくる人は割と多い。近代以降では、正岡子規、現代では寺山修司、塚本邦雄、岡井隆 他。寺山修司と塚本邦雄については、〈私性〉における本歌取のところで、俳句と短歌の関係を述べた。では、古今和歌集をこき下ろして短歌革新を行い、俳句では蕪村を高く評価して世に知らしめた正岡子規のおいて、短歌と俳句をどのように作り分けたのであろうか。
どうやら子規は、俳句と短歌の間で本歌取というような作り方はしなかったように感じられる。
そのあたりのことを知りたくて、子規全句集と全短歌集(「竹乃里歌」)で、同時期・同主題(同詞書)で詠まれた短歌と俳句を取り出して比較してみた。以下に対になる作品をいくつか挙げてみる。
■明治二十六年では
「はて知らずの記より」
松しまや雄嶋の浦のうらめぐりめぐれどあかず日ぞくれにける
秋風や旅の浮世の果知らず
「最上川」
草枕旅路かさねてもがみ河行くへもしらず秋立ちにけり
旅人や秋立つ船の最上川
■明治二十八年では
「金州にて」
たたかひの跡とぶらへば家をなみ道の辺にさくつま梨の花
梨咲くやいくさのあとの崩れ家
「従軍の首途に」
かへらじとかけてぞちかふ梓弓矢立たばさみ首途すわれは
いくさかな我もいでたつ花に剣
■明治三十年では
「愚庵より柿をおくられて」
御仏にそなへし柿ののこれるをわれにぞたびし十まりいつつ
御佛に供へあまりの柿十五
■明治三十一年では
「病中」
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く
写し見る鏡中の人吾寒し
いずれもまことに素直な作りであり、俳句も短歌も相互関係を意識することなく、詠みたい字数で詠んだ結果に見える。今までの評論で、子規における俳句と短歌の関係を論じたものを見たことが無いので、誰も問題にしなかったのだろう。