客観写生とは
「一挙手一投足が歌になる。それは言葉の斡旋による。」これは、読み終えた茂吉の歌集『霜』から得た悟りである。悟ったからといって、良い歌が詠めるわけでないところがつらい。釈迦が悟りを開いたからといって世の中を平和にしたわけでない、などと気休めに考える。
では、その『霜』から歌の例をあげよう。
身みづから六十歳になりぬると眼鏡はづしてそばに置きたり
目ざめたる寒きあしたぞ新しく感じて吾は二階をくだる
冴えかへるこのゆふまぐれ白髭にマスクをかけてわれ一人ゆく
日もすがら建築の音ひびき来てわれの机もときどきうごく
われつひに老いたりとおもふことありて幾度か畳のうへにはらばふ
しづかなる心をもちて山くだる雨おほかりしことをおもひて
六十になりたるわれは午後四時の汽車に乗らむと汗垂りいそぐ
この部屋のすすびかりする天井をしばしば見たり眼をあき居りて
日に幾度にても眼鏡をおきわすれそれを軽蔑することもなし
友ひとりゆふぐれ山をくだりしが吾はその夜はやくいねたり
なんでこんな平凡な日常動作が歌になるのか? 茂吉にとっては決して平凡なことでなかったと思えば理解できよう。あるいは、五七五七七の韻律にのせて初めて平凡でないことに読者である私が気付いた。自分自身の動作を徹底して客観写生した結果である、と茂吉なら主張するはず。自分自身の行為を客観写生している故に面白いという指摘もできる。
茂吉のこの行き方は、他の歌集にも現れる。『暁紅』から一例のみ拾っておく。
燠(おき)のうへにわれの棄てたる飯(いい)つぶよりけむりは
出でて黒く焼けゆく
実にたわいもない情景が歌になっている。なお、ここでも先に紹介した主語の変動が起きている。「黒く焼けゆく」のは、飯粒なのに、この歌の作りでは、けむりが主語になったままであるように感じられる。