天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(27)―

角川学芸出版

  日盛りを歩める黒衣グレゴール・メンデル一八六六年
  モラヴィアの夏        永田和宏『やぐるま』


 今年の2月25日に、角川学芸出版から小池 光『うたの人物記』が刊行された。元は角川『短歌』に平成十八年八月号から二十年九月号まで、「短歌人物誌」として連載された鑑賞文である。短歌に詠まれた古今東西の人名を取りあげ、ジャンル別に分類して紹介している。歌に詠まれた人物の側から焦点を当てた本である、と「あとがき」に記す。
 掲出の歌は、科学者の分類の中に最初に出てくる。この本の最初の歌でもある。この歌のどこが良いのか?事実をそのまま報告しているだけであり、三句四句が大幅な字余り。おまけにぶつぶつ切れている。通常の短歌観からは、このように酷評されるであろう。現在でも知的好奇心から詠まれた歌や知識を前提とする歌は、ダメとの考え方が一般的である。この流れに抗して、事実や知識の面からもどんどん短歌を詠み評価し始めたのは、短歌史上で永田和宏や小池 光らが最初であろう。
 それで掲出の歌をどう鑑賞するか? 読者の注意を引くのは、「黒衣」、「一八六六年」の二か所であろう。特にわざわざ一八六六年としたのは、メンデルにとって特別の年に違いない、と感じるはず。それで知的好奇心を持つ読者なら、グレゴール・メンデルの生涯について調べてみようとするだろう。小池 光は、知識をもとに、この歌を読み解いてゆくのである。
黒衣=グレゴール・メンデルは、修道院司祭にして自然科学者でもあった人物。「メンデルの法則」を発見したことで世界的によく知られている。その彼にとって一八六六年は「植物の雑種に関する実験」と題する論文をブルノ自然会誌に発表し、メンデルの法則を明らかにした年であった。だがこの論文の成果は、当時の学界・世間からは見向きもされず、高く評価されたのはメンデルの死後三十数年経ってからであった。メンデルの生誕百年祭が、大正十一年九月二十五日に、彼の学んだウィーン大学で開催されたが、その時の講演を留学中の斎藤茂吉が聴いていた。小池は、その折の茂吉の次の歌を歌集『遠遊』から紹介する。

  グレゴル・メンデル百年祭の講演を聴きて眼(まなこ)を
  みはりつつ居り


歌の作者・永田和宏にとってメンデルは分子生物学の大先輩に当ることを小池は指摘して、この歌が詠まれた動機を明かす。即ち、死後に高く評価されることになる論文を発表したある年の夏の科学者の姿を、象徴的印象的に永田は歌にとどめたかったのである。