天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

足尾鉱毒事件

佐野厄除大師にて

 足利に大藤を見に行ったついでに、隣の佐野厄除大師に寄ってみた。ついでといっては罰が当たるが、ここには分骨された田中正造の墓がある。周知のように、彼は足尾鉱毒事件解決に尽力した人物。以下に概要を紹介しよう。
 足尾鉱毒事件(明治三0年)は、栃木県足尾銅山から鉱毒が流出し、一八八0年代後半から渡良瀬川沿岸農地が汚染された公害事件である。代議士・田中正造は時の議会に訴えたが聞き入れられず、一八九七年以来、たびたび農民が大挙上京して抗議行動をおこし、警官隊とも衝突した。ついに田中正造は馬車ででかける明治天皇に直訴した。失敗に終わったが世論が沸騰したため、政府は一九0二年に鉱毒調査会を設置し、治水問題として解決を図ろうとした。
 石川啄木は盛岡中学四年生の一月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。彼が主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で啄木が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだという。鉱毒事件をもっとも早い時期に短歌に詠んだことになる。その中で次の一首は、歌碑として田中正造の墓前に立っている。右上の写真である。


     夕川に葦は枯れたり
       血にまどう民の叫びの
         など悲しきや
                  石川啄木


  活力のなき町に見ゆ市庁舎の庭の時計は止りたるまま