天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(16)―

講談社文芸文庫

     朝顔や百(もも)たび訪はば母死なむ  永田耕衣『鹿鳴集』


塚本邦雄『百句燦燦』の鑑賞文から部分的に引用する。(但し、便宜上、新かなにして。)
・・・「死なむ」の「む」の推量には期待と懼れが等分に加味されている。憐憫と嫌悪は訪う毎にかたみに濃くなり逆に淡められ、生ける死霊は作者をほしいままに操る。・・・
百度訪はば」とは「幾度訪ねたとて」の意であり、「死なむ」は当然否定に変るべきであった。作者はその打消に堪へ得なかったのだ。「死なざらむ」が「死なず」にかつは「死なざりき」に移ってゆくことを作者は予測しつつ言うのを恐れた。・・・


 塚本は彼らしく、老母に対する憐憫と嫌悪の感情の視点から句を解釈している。それはよく理解できるが、別のもっと楽天的な鑑賞もできる。即ち、塚本は、鑑賞文において「百たび」を朝顔の花の寿命に結び付けているが、そうではなくて、耕衣は毎年朝顔の咲く頃、母を訪ねていたら、さすがに百年もすれば母は亡くなるだろう、と詠んだのではないか。母の長寿を祝い願った句と解釈するのである。