天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

歌集『蜜蜂の箱』(3/3)

六花書林刊

さらに読者の常識的な感覚を裏切るような否定表現が目を引く。否定表現がかえってもののイメージを鮮明にする効果があることは、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の例で良く知られているが、佐々木さんの用法は次のように独特である。
  顎鬚を好まぬわれは三か月夫の顔をまじまじと見ず
  ゆふぐれの刈生に降りし大鴉あけたる嘴に「ア」と言ふでなし
  青鷺のゐない水辺に男きてトランペットを吹きはじめたり
擬人法も詩歌にはよく用いられるレトリックだが、この歌集にも次のような魅力的な例がある。
  軒先の器にのこる犬の餌にときをりかかる不機嫌な雨
  すみとほる秋の鏡に寄りながら蚊はかそかにもアリアをうたふ
  緋の魚はうすき氷にすきとほりいまだ告げざる言葉みじろぐ
  しづしづとのる筍を大皿に切り分けむとするナイフとフォーク
その他に以下のような表現の工夫にも注目した。
  をさなきひ青草原にのみこみし淋しさの種そだつはつなつ
  風はいつ吹いたのだらう「大航海時代」の地図をいちまいのこし
  磨りきれてしまひし「緑の袖(グリーンスリーブス)」鳴らし廃品
  回収車ゆく


  ささやかな時間泥棒ポットの湯そそぎ夕べのアスパラゆでる
  絶望の縁をゆけとは誰がことば白壁をおす蠅をみてゐつ
終りに指摘しておきたいことは、ひらがな表記の多用である。もともと平安朝の和歌では、ひらがな書きが常道であった。優美な和歌の象徴でもあった。現代短歌においても、これが効果を発揮することが、この歌集の作品群から見てとれるのである。