天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

松の根っこ(2/15)

機関銃

感覚で掴む俳句
三鬼の俳句に対する考え方が現れている言葉を拾い上げると、次のようなものがある。
「私にはこういふ品のいい情緒俳句は苦手ですナ。よさが判らんですよ。」(星野立子の「時雨の句そらんじつつやゆく時雨」を、橋本多佳子が、いい句と褒めたのに対して)
「一体に女流俳句は私にはよく判らんですよ。感覚で掴んでない句は判らんですね。」
以上の言葉は、橋本多佳子との対談に出てくる。次に、開眼に関して、開眼という言葉は好きではないが、としつつ、「俳句といのはジリジリうまくなって、ジリジリ自分を発見してゆくと云ふのではなくて、或る句が出来た時に、俳句はかういふものでありしか、と、ハッと会得するものだと思ふんです。」
また、水原秋桜子の「記憶が出来ない俳句はよくない俳句です」という言葉を至言だと共感している。以上の背景から、三鬼の俳句は感覚で作られており、読む場合も、意味を詮索するのではなく、一読得られる感覚で鑑賞する性格の作品だということがわかる。


戦火想望・無季俳句
『旗』の昭和十四年に「戦争」の連作があるが、映画や新聞報道から作られた日支事変の戦火想望俳句として、評価は様々。秀句となっているものはない。自ら経験してもいないことを作品にすることを倫理的なまでに嫌悪する向きが、今も昔も多いが、文芸作品を私事の狭い範疇に窒息せしめる態度である。作品の背景に作者の実経験があるかを常に探らないと評価が出来ないようでは、短詩形はやはり二流の文芸、と蔑視されてもしかたなくなる。あくまで独立一句としての出来具合を吟味すべきもの。
   右の眼に大河左の眼に騎兵
右方向に大河あり、左方向に騎兵が見えたのであるが、このように表現することで、ある種不安な雰囲気がかもし出されることは、三鬼の熟知した手法である。
   機関銃花ヨリ赤ク闇ニ咲ク
   機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル
自分で機関銃を撃っているのではなく、離れたところから見ていることが直にわかる。見え透いているが、弾装を蛇腹と見立てた点、カタカナ表記で非情さを出している点など工夫している。