知の詩情(13/21)
小池が塚本から引き継いだ考え方に、「不在の在」がある(『街角の事物たち』)。写真家・中野正貴は「人のいない風景」というテーマで、銀座や渋谷の繁華街の無人の時を撮影して、見る者に逆に人間の存在を強く感じさせている。小池の考えの実例である。ある事象が「ない」と詠うあるいは「思わない」と詠うことによって、逆に読者にその事象の存在を感じさせる、作者の本心を窺わせる手法(塚本邦雄『国語精粋記』)である。よく引き合いにだされるのが、藤原定家の歌
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
駒とめて袖打払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
「花も紅葉も」「駒とめて袖打払ふ」と詠まれた時点で、読者はそれらの情景をイメージしてしまう。つぎにそれらが無い情景を想像する。「ない」と言いながら、その実、読者には存在を感じさせてしまう。
塚本の「不在」へのアプローチは、独特であって、有名人物についてその人の忌日を詠みこんだ。ただ、読者には取り合せの必然性が理解しにくく、難解な歌が多い。例えば、
袋小路の肉屋に妻は肝臓と舌を約せり さむきジッド忌
『日本人霊歌』
群青の沖へたましひ奔りをりさすが淡雪ふる実朝忌
『豹変』
伐つた櫻の腕ほどの幹花交(まじ)へはこびこまれつ 沖田総司忌
『詩魂玲瓏』
緋の百合三莖引摺るごとくひつさげて霧の中を奔る、三島忌
『約翰傳偽書』
二首目は、実朝の渡航願望と暗殺された雪のふる日を思い合わせれば理解できる。