癒される短歌
日本の詩歌の根源は和歌・短歌にあり、歴史は大変古いが、文藝としての手法は、現代でも様々に工夫されている。ただ、手法ばかりが目立って、心に浸みる癒される作品は案外少ないことにガッカリする読者もいるだろう。
客観写生、実相観入が盛んに推奨された時代、暗喩や虚構を多用する前衛短歌の時代などを経てきたが、日記のように事実を述べる歌は、ダメとよく言われる。一方で、短歌は日記替りになり、事実が内包する驚きは、詩の核になるとの意見もある。
理屈はどうあれ、読者にとっては、何よりも心癒される作品こそが貴重なのである。その例を今年の「短歌人」8月号から、以下に紹介しよう。作者は、同人の佐々木通代さん。
工事日誌 佐々木通代
キッチンにほどけつつある芍薬のつぼみがにほひ令和十日目
にしまどの曇りガラスにひとの影みぎへひだりへ足場をわたる
モーター音金属音はせまりきて高圧洗浄されをり家は
あまたなる色見本よりえらびたる琥珀に家の壁ぬられゆく
「おやぢさん」と呼びかくる声わらふ声ひとしきりして昼休みらし
灰いろのシートに透けて鉢の面にメダカの赤がしきりにうごく
足場のすみのケースのなかに一冊の「工事日誌」はしまはれてをり
内容自体は、まことに日常そのものであり、誰しもが似たような経験や見聞した事柄を題材にしている。短歌手法も目立たない。しかし一連を読み通すと、何とも言えず気分が落ち着き、癒されるのである。良い短歌をつくる上で、大変示唆に富む作品と言える。技術面からみてみよう。
短歌定型に従い、旧仮名遣い。語順、漢字と仮名の使い分け、適度のリフレイン、言葉の選択 などを指摘することができる。しかしこれらを作者のように何気なく自在に使いこなすことは、容易ではない。
ところで、この作品の最大の特長は何か? 事象の選択と推移にある、と言いたい。たるみがなく、イメージが実に鮮明なのである。それが忠実な短歌作法と相俟って成功しているのだ。
そう簡単に真似できるものではないが、短歌を詠む上で大いに参考にしたい。教材にしたい。