天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

呪われた従軍歌集(2/10)

 わが国の戦史において戦場を短歌に詠むようになったのは、明治以降である。日清戦争正岡子規が従軍記者として参加した時が最初になる。子規は、金州を中心に戦跡を視察したのだが、残念ながら、その内容を文芸作品としてまとめるに到らなかった。陣中日記に俳句、短歌、新体詩を書き散らした程度に終わった。日露戦争に際しては、伊藤左千夫などが天皇の威光と国民の意気込みを讃えた歌を詠んだが、戦場詠はなかった。支那事変になって、アララギ会員の兵士が数多く詠むようになり、斎藤茂吉土屋文明の選を受け、『支那事變歌集』(昭和十五年十月刊)が編集された。最初に従軍歌人の歌集として出版されたのが、『渡辺直己歌集』(昭和十五年二月刊)であった。しかし、これは渡辺直己が天津で爆死したため、彼自身は知らず、アララギの知人・関係者の努力によるものであった。

 従軍歌人として自ら歌集にまとめた最初が、小泉苳三である。従軍歌集『山西前線』においては、戦地の話から詠んだものか、自ら戦火をくぐって詠んだものかは、前書などから分かるようになっている。天皇皇軍を讃える歌も載せてあり誠実である。この歌集の

後に、土屋文明『韮青集』(昭和二十一年七月刊)、宮柊二山西省』(昭和二十四年四月刊)が続くが、両者は終戦後に出版されており、時局や自身に都合の悪い歌は除かれている。なお、太平洋戦争に入ってからは、戦死者が桁違いに増えたためもあって、歌人の従軍歌集は見当らない。

以上のことから、戦時文学の短歌ジャンルで画期的な歌集が小泉苳三著『山西前線』であった。伏せ字は三十四か所。歌集としては特異だが、妙に戦時のリアリティがある。

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支那事變歌集』