きりぎりすが炬燵に?
俳句作りの要諦として、ぎりぎりまで省略して後は読者の読みを信頼すべし、ということが言われる。芭蕉の「かな」句について例をみてみよう。
きりぎりすわすれ音(ね)になくこたつ哉(かな)
何の木の花とはしらず匂(にほひ)哉
梅こひて卯花(うのはな)拝むなみだ哉
鳩の声身に入(しみ)わたる岩戸(いはと)哉
山城へ井出の駕籠かるしぐれ哉
雑水(ざふすい)に琵琶きく軒の霰哉
いずれも散文に比べて省略がはなはだしい。なんとなくわかるが解釈に自信が持てない、といった不安がわく。結句がなくとも意味をなすので、結句との関係の解釈が問題なのだ。順番にみていこう。
こたつに入って絶え絶えに鳴くきりぎりすの声を聞いている
木の種類はわからないが、花が匂っている
梅を恋しく思って卯の花を拝むと涙がでてくる
岩戸の前に立っていると鳩の鳴き声が身にしむ秋だ
山城へいくのに井出で時雨がきたので駕籠に乗った
雑炊を食べていると軒を打つ霰が琵琶をきいている気分だ
といった読みになるか。俳句の読みになれていないと、最初の句では、きりぎりすがこたつの中で鳴いているように見えるであろう。三番目は、梅が故人のことを暗示していると思いつかないと訳がわからない句であろう。四番目は、岩戸が唐突すぎてとまどうし、季語の理解が必要。最期の句は、材料が多すぎて情景を把握しにくいであろう。
俳句や短歌は韻文であり、特に文語表現では、助詞を省略することが多い。それで文が引き締まるからだ。読者は、こうした省略の了解事項を習得しておかないと、近世までの和歌や江戸期の俳諧が解釈できない。短詩型における省略の了解事項をまとめた手軽な本がほしいが、なかなか見当たらない。