老境の歌(4)
高松秀明さんの歌集『旅立ちて、今』より、老境というにふさわしい歌を挙げよう。
眼鏡などかけなくていい眼底は仏いだけるうす闇を持つ
紅葉に心さそはれここらあたり他界ならむと岩に胡坐す
障子はり紅葉一葉止めおくにその葉脈もかすむ眼となる
目つむれば薄き闇なす界のあり仏も神もむらさきに顕つ
月読尊(つくよみ)の腕(かひな)に近く倒れたる魂(たま)
さらはむと霧はながれく
かすかにも仏の耳環なりそむる旅立ちまぢか我も供せむ
御神符を額にはりてたどりゆく山中他界の熊野なるべし
昨日とはまた異なれる死に際の思ひをいだき眠らむとする
凍死とふやすらけき死は夢なれどいくたびか訪ふ雪の大地を
年々にわが心より遠さかる宙にありたる詠嘆の磁場
今日もまた生き疲れたる横伏に〈さらば〉と言へず火の星を見る
そしてこれが最後だが、文句なしに良い歌と思う歌をあげてこの項を終わりにする。
あぶりつつ魚を食みをりとほき日に菊のひかりにあぶられし身は
沈みたるもの大方は見えねども波裏がへるときに影あり
ひそみゐる山の女童あそび来よ湖水の碧の澄みてゐる間に
石清水のみたる口を手拭へる山の童女の皓(かう)の歯並び
木の精にくすぐられゐるみ仏は耐へきはまれば笑みこぼしたり
心満たすすべなきがゆゑ来し旅に魚とあそべり水をたたきて
「幽魂の鐘」ひとつ打ち高からぬその音を追ひまた一つ打つ
北溟の波よせかへす響きあり低きは国を引きてゆくらし