時事詠の弱さ
童話のような名前の山に金網が濡れ居り深夜のテレビの中に
*この歌のどこがよいのか? 童話のような名前の山と言われ
たっていくつもあるだろうに。山頂に送電設備なりTV中継局
なりがあれば、金網が張ってある山は、珍しくもない。
しかもそれがテレビの映像なら、読者は感動のしようもない。
実はこの歌の作者は、現代有名歌人の佐佐木幸綱なのだ。
これにもし「透明なボクー酒鬼薔薇聖斗ー」という前書をつけ
たらどうであろう。中学三年の少年が、年下の少年を殺し首と
胴体を切断し、首を晒した事件を覚えている読者には、俄然
よい歌になってくるだろうか?だが、時間が経過すると、この歌
を見ても当時の生々しい記憶は甦ってはこないのではないか。
「俳句研究」11月号に掲載されている高野ムツオ特別作品「万の翅」52句を読んで、その作品のよくいえば多様さ、悪く言えば個性の無さを感じた。高野ムツオは、佐藤鬼房亡き後、結社「小熊座」の主宰を継いでいる。
先ず、いいなと思った句をふたつ。
夕虹を刺青にして老いゆかん
みちのくの夕焼すべて鯨の血
次に、わけがわからない句をふたつ。
チューリップ並んで首のない校庭
アリジゴクにも地獄なり蟻地獄
最後に時事詠として、面白くない二句
熱帯夜また詩に溺死せしニュース
秋風の今日よりさらば冥王星
短歌でもリアリティの持続が難しい時事詠は、それよりも短い俳句では、なおさらのことである。