もっと破調の歌を
「短歌人」四月号の特集「破調の歌」を読み終えた。大変有意義な評論集になっている。わけても「かりん」所属・川野里子が寄稿した「葛原妙子の破調」がよくまとまっている。副題が、「第三句欠落の意味」となっているが、葛原妙子の破調の歌全体について、丁寧な分析がなされている。説得力に富む。
葛原は、第三句欠落の字足らずの歌は、内心、短歌ではないと思っていたようだ。短歌と俳句の中間の字数の歌がほしい、と書いている。ちなみに、第三句を抜く歌は、高瀬一誌も得意としたが、擬似短歌と呼ばれた。
川野の分析によれば、葛原妙子の第三句欠落には、必然的な理由がある。要約すれば、
人類に対する根源的な不安を抱えるとき、短歌という詩型が
その不安を言い当てうるのか、葛原は常に自問自答せざるを
えなかった。形のない巨大な不安を不安としてリアルに表現
できる形、それが第三句欠落のようなラディカルな破調を
産み出したと言えるかも知れない。
となる。解釈の例をあげておく。
あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
*この破調はロザリオのもたらすはずの静謐な安らぎを破壊して
いるのだ。こうした破調の効果に葛原は非常に敏感であった。
通常、短歌指導の場では、破調を認めない。厳しく戒める。だが、短歌の厳密な定義に拘るよりも、破調を積極的に駆使して、新しい抒情の表現方法を極めることが重要ではないか。短歌の特殊ケースとして認め、どんどん作って評価してみる態度がほしい。