天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と等時性

 「短歌研究」8月号の小池光「短歌を考える」では、啄木の3行書きについて、示唆に富む分析をしている。要点を書き出すと、

  啄木の3行書きは句の等時性と行の等時性が同時進行する
  印象を与える。比喩的にいえば聴覚は短歌形式としての句
  の等時性を感覚し、視覚は文字配列としての行の等時性を
  感覚する。句と行という全然違うものを、等時性という
  同じ原理原則で感ずる。
  日本語とは、そういうものであるらしい。


つまり、小池の論を解説すると、耳による句の等時性は

      東海の・・    (7拍)
      小島の磯の    (7拍)
      白砂に・・    (7拍)
      われ泣きぬれて  (7拍)
      蟹とたはむる   (7拍)


であった。対して目による行の等時性が

      東海の小島の磯の白砂に  (17字)
      われ泣きぬれて・・・・  (17字)
      蟹とたはむる・・・・・  (17字)


ということであるらしい。

 小池論の応用として、釋迢空の句読点付表記や分かち書きを解析するとどうなるのだろう。啄木ほどシンプルではない。

A  道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに

B     桜の花ちりぢりにしも
       わかれ行く 遠きひとり
       と 君も なりなむ


先ずAの歌。わざわざ句読点をふっているのは、間の取り方・読み方を指示している。五七五七七の句切ではない読み方である。

    道に死ぬる馬は■■■■■■
    仏となりにけり■■■■■■
    行きとどまらむ旅ならなくに


Bの歌。当然視覚効果を狙っている。

      桜の花ちりぢりにしも□
      □わかれ行く□遠きひとり
      □と□君も□なりなむ□


句切や読み方はどうあれ、日本語の等時性を前提にするなら、こうした模式化は容易である。