天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(31)―

ちくま学芸文庫版

     菊の香や奈良には古き仏達    芭蕉「笈日記」


高浜虚子
 ・・・古い仏たちの沢山ある奈良に行った時の心持は、清高なる菊の香を嗅ぐ時の心持と似通ったところがある、というのである。・・・この句はそういう実際の景色を写生したというよりも、奈良に行って古い仏たちに接した時のすがすがしい尊い感じを現わそうとする場合に菊の香に思い到って、それを配合したというような句である。俳句は往々にしてこういう句がある。・・・

山口誓子
 ・・・奈良の仏たちを讃仰する句としてこれ以上の句を私は知らない。(誓子はこの句のできた経緯・背景を紹介する。)・・・日暮れて奈良着、猿沢のほとりに宿をとった。疲れて宵のほど一睡。夜月明るく、池のほとりを句を作りつつ歩いた。そういう状態のとき、この句は出来た。菊は近くに匂っていただろう。・・・そのときの芭蕉の身に最も近いのは興福寺の仏たちだったのではあるまいか。

加藤楸邨
 ・・・「菊の香や」と「奈良には古き仏達」との間には連句の「匂ひ」に比すべき気分の交流がある。繰返し誦していると、その声調の中にこの蒼古たる世界がはっきりうかび出てきて、詞はその感じの中にまったく没し去るような感じがするであろう。「仏達」は宗教的信仰の対象としての畏敬すべき仏の感じよりは、親しく暖かい血が流れた仏として把握せられており、「菊の香」も、深い、色のない匂いの世界へ融け入る端緒になるような効果を持っている。・・・


 * この句、芭蕉の作と分っていなければ、次のような厳しい
   批評がでるかも知れない。
   「菊の香や」は置き替え可能では?「奈良には古き仏達」
   は当たり前。前者に対しては、虚子が、後者に対しては
   楸邨が答を出している。特に楸邨の鑑賞は、句から受ける
   印象をもとにした総合的に丁寧な分析といえる。山口誓子
   の鑑賞は、他の二人と違って、句のできた経緯・背景を
   紹介している。