天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (11/13)

『麓の人』雲母社

  秋空の一族よびて陽が帰る         『麓の人』
句中に切れはあるか? また、何の一族なのか? 句中に切れが入るとすれば、二句の
終りしかなさそう。句の主語は太陽であるから、秋空に散っている太陽の一族を、太陽が
呼び寄せて西の地平に沈んでいく、という情景なのだ。自注でもそうなっている。二句目
の切れは弱い。
  浴衣着て竹屋に竹の青さ見ゆ        『麓の人』
情景としては「浴衣着て竹屋に竹の青さ見る」と述べるのが素直である。そうでないと
ころがくせもの。主語が途中で変わっているので、ねじれが生じている。つまり浴衣を着
ている主人公と青く見える竹とふたつの主語がある構造なのだ。散文にしないための工夫
である。/浴衣着て/竹屋に竹の青さ見ゆ/
  浴衣着て水のかなたにひとの家       『麓の人』
切れは、/浴衣着て/水のかなたにひとの家/ のように入る。では、浴衣を着ている
は誰か? 作者だとすると間が抜ける。そうではなく、あくまでかなたの家にいる人であ
る。
  暮春しづかな古城の端に友の家       『麓の人』
五七五の句の切れ目のどこかに「切れ」が入ると思い込んでいては、この句は解釈でき
ない。「暮春」で切れてはじめてすんなり意味が把握できる。
/暮春/しづかな古城の端に友の家/
  夏の雲湧き人形の唇ひと粒         『麓の人』
 意味上の構造は、夏の雲湧き・人形の唇ひと粒 である。背後の雄大な景に眼前の人形
のひと粒の小さな唇を対比させた。
  落葉踏む足音いづこにもあらず        『忘音』
後で否定することにより、否定する前の情景を返って強調する手法である。この句で読
者は、はっきりと落葉踏む足音を聞いてしまう。和歌では、藤原定家の「見渡せば花もも
みぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がよく知られている。
 /落葉踏む足音/いづこにもあらず/
  山の鳥つらぬく雪の田を重ね         『忘音』
意味の上からは、雪の田を重ね・山の鳥つらぬく であろう。棚田の上空を山の方から
飛んできた鳥が横切っていく情景を想像する。
/山の鳥つらぬく/雪の田を重ね/