天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌の朗読

 短歌に興味を持ち始めたときから、疑問に思っていたことがある。未だに納得できていないこと。それは、短歌という言葉に歌が含まれているのだが、歌として読まれる場面が少ないこと、歌会始での読み方が現代人が思っている歌とは感じられないこと、朗詠とは違うらしいこと 等々。それで調べてみた。
「朗詠」とは、平安中期に成立した歌謡の一種で、もっぱら「漢詩文」に節をつけて吟誦するものであった。和歌については、朗詠とは言わず、披講と言った。
和歌の披講には、講師による読上と発声・講頌が三種(甲調、乙調、上甲調)の曲節をつけて鑑賞を目的とする形式とがある。歌会始の放映でよく耳にするのは、「読上」である。和歌の披講のふしは、純粋な楽曲として歌われるというよりは、歌詞の内容を伝えることを念頭に置いた素朴古雅な節回しのものである。あくまで歌の内容を良く聞き味わうことを本義とし、音楽性は二義的なものである。これが和歌(長歌、短歌、旋頭歌、片歌、仏足石歌など)の世界でいう歌なのであった。
 では和歌と歌謡との違いはどこにあるのであろう。歌謡には、神楽歌、催馬楽、朗詠、今様、仏教歌謡(和讃)、早歌(そうが)、小歌、謡曲 等々があり、通常楽器の伴奏を伴い、節をつけてうたわれる。平安時代以降に生まれた歌謡は、それぞれ歌い方が記録・伝承されているので、和歌の披講との違いは明確といってよい。だが、和歌の源である最古の記紀歌謡については、それらがどのように謳われたか、文献がみつからないので不明。
 釈迢空は、短歌の表記に句読点を導入して、論理の明快さと読み方を工夫したが、彼自身の生の朗読を聞くと、句読点を無視している態であり、残念ながら意図が伝わらない。

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日本文化財団『和歌を歌う』(笠間書院