天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わが歌集・平成二十五年「霧笛橋」

     島崎藤村展   八首

  霧笛橋渡りて近代文学館藤村展を見むとわが来し

  五七調はた七五調読むほどに心地よくなる藤村の詩(うた)

  三越で渡欧の前に誂(あつら)へし小型トランクまだ使へさう

  藤村の頭の臭ひ残しゐむふたつ展示のカンカン帽は

  口少し開きて顎鬚まばらなり次男が描きし絵のデスマスク

  藤村の死後三十年大磯の旧居守りし後妻の静子

  大磯をつひの住処(すみか)と定めたり藤村夫妻のねむる地福寺

  前妻と子らのねむれる古里の馬籠の墓は遺髪と爪と

 

     冬に入る   八首

  原発の行方わからぬ日本の没日(いりひ)に向かふ皇帝ダリア

  霜月も尽きんとするに庭隅の雲南萩の花まだ枯れぬ

  混みあへる駅のホームに竦み鳴く羽根未熟なる幼き鳩は

  紅葉を裏より見れば極月の朝の光に朱はかがやけり

  盃に大きく息を吹きかけて厄割り石に投げつけてけり

  たまくしげ箱根の山は凸凹(でこぼこ)と師走の空を画してゐたり

  ふた筋の飛行機雲はたなびきて師走の空にうすれゆくなり

  極月の寒気に赤くつやめけり山門下の賓頭盧尊者(びんづるそんじや) 

 

     早春賦   八首

  白バイの二台に続きランナーが遊行寺坂を駆け下りてくる

  大学の名前書きたるプレートを抱へてひとり学生が立つ 

  初春の遊行寺坂のかたはらに僧も旗振る箱根駅伝 

  正月の朝日きらめく池の面に黒くかげろふ水鳥の群

  マンションのベランダから見るたまくしげ箱根駅伝復路の走者 

  山門に「頭上注意」の札立ちて屋根すべり落つ雪の塊 

  あからひく朝の光を身にうけて雪に匂へる臘梅の花 

  菜の花のまぶしき山ゆ見下せばささくれ立てる一月の海

 

     三寒四温   八首

  老人の手を飛び立ちし竹トンボ屋根には行かず植木に止まる

  梅園の出店の主人この年の梅の開花の遅れを嘆く

  ジャグジーに体もませてその後のサウナルームにわが汗垂らす

  走りきて茅ヶ崎沖に停まりたり富士の手前の白き釣舟

  影うすく生簀に泳ぐアオリイカ片瀬漁港に買ひ手を待てり

  ひとりとる昼食なれば鉄火巻鳥の照り焼き買ひて帰りぬ

  JIM・BEAMブラックを飲む熟成の六年間に孫ふたり生れ

  内にもつ地図に道なき荒野あれそこを拓きて生は成就す

 

     花の季節   八首

  啓蟄の日をよろこびて夕食は笹掻き牛蒡の炊き込みご飯

  春分の水を柄杓に受け流す水琴窟の音のはなやぎ 

  菜の花と河津桜の中腹に客待ち顔の出店がならぶ

  見てをれば白木蓮をさしおきて一足早く辛夷花咲く

  三月の山にふぶける杉花粉ましらの群は目を掻きむしる

  横浜の西に位置して稼働せる馬酔木花咲く下水処理場

  桜咲く奥津宮(おくつのみや)の力石持ち上げないで下さいとあり

  花桃も今さかりなる里山になだれて咲けるかたくりの花 

 

     定家卿を訪ふ(一)   八首

  相国寺墓地入口の左手に定家、義政、若冲ならぶ

  初めて式子内親王に会ひし日は薫物馨香芬馥たりと

  月蒼き夜は定家に出会へるか烏丸通り御所に行く道

  京の餓死者道に満つるをよそに見て初学百首を定家は詠みき

  荘園のあがり確保に四苦八苦そこで雇ひし強面の僧

  宮廷の蔀(しとみ)開け閉め朝夕に出かけてゆけり下級の公家は

  夜中にも院の招きに馳せ参じ疲れ極まる乱痴気騒ぎ

  暗闇に院の牛車の現れて疾走したり夜遊びの果て

 

     定家卿を訪ふ(二)   八首

  天皇は子づくりのみにはげみたり平安末期の院政なれば

  競馬にも和歌にも定家をひきまはすホモ・ルーデンス後鳥羽上皇

  頻繁に呼び出ださるる歌会に「興無シ。早ク出デテ逐電」

  さまざまの王子参りに疲弊せる熊野詣に二度とは行かず

  歌詠むも遊行のひとつさりながら除目待たるる歌道の家は

  夜前より蝦蟇の如くに右目腫る新古今集の選歌に耽り

  白拍子、遊女かまはず引き入れて後鳥羽がなせる乱交の沙汰

  切り継ぎにまる十五年その途中実朝に贈る新古今集 

 

     定家卿を訪ふ(三)   八首

  実朝の歌にあらはな本歌取り「詠歌口伝」の教へどほりに 

  乳母らは時に孕めり皇子たちに夜ごとほどこす性の手ほどき 

  『明月記』読めば夜中にうなされて叫び出だすを人知るなゆめ

  宮廷の有職故実のあれこれをこまごま記す定家の日記 

  上皇の呼び出しなれば松明を点して奔る闇の大路を

  実景を見ずとも詠ふ歌枕ことばすがたの艶にやさしく

  荘園を除目代りに約したり定家をおもふ姉のはからひ

  歌詠まず蹴鞠にはげむ為家をたびたび嘆く父は日記に 

 

      定家卿を訪ふ(四)   八首

  実朝に万葉集を贈りては荘園安堵を要請したり

  力ある武家の娘を為家の嫁にもらひて盤石を期す

  「道のべの野原の柳」上皇の怒りをかひて謹慎の沙汰

  手薄なる軍備と知らず東国に義時追捕の宣旨は下る

  もののふを幕府にあつめ上皇の理不尽を説く北條政子

  歌道をば家道となさむはからひの子孫にのこす書写の数々

  順徳帝の佐渡へ配流を見送らずお家大事は為家もまた

  病みがちといへどはろばろ出かけたり京を離れて有馬出湯に 

 

     甍(いらか)   八首

  鑑真を伴ひ帰るしきしまの大和の国の甍なつかし

  再現のなりし瓦に一首書き五千円添ふ屋根の寄附金

  天平の甍やいかに平成の修復なりし唐招提寺

  わが書きし一首の瓦金堂の屋根のどこかに納まりたらむ

  屋根の無きビルの屋上夏くればビアガーデンのパラソル開く

  下宿屋の屋根裏伝ひそこここの部屋を覗きぬ乱歩の男

  屋根に立つ八木アンテナが受信せし九・一一、三・一一

  山上の白きドームの天文台夜きたりなばその屋根開く

 

     見送る(一)   八首

  杏林大医学部付属病院の外科病棟に母は息継ぐ

  ふた筋の点滴の管ひと筋の排尿の管 身体に挿して

  胃の中に潰瘍二つあるゆゑに横隔膜に膿たまりしと

  時折は意識の冴えて子と知れどそののち沈む深き眠りに

  最近の孫や曾孫の写し絵を渡せば飽かず見つめてゐたり

  答へるに発語かなはぬもどかしさ喉に手をやりその旨示す

  鶏がらのごとき手足のむごければタオルケットを被せて摩(さす)る

  二種類の点滴のみに生き延びて意識残れる母をかなしむ 

 

     見送る(二)   八首

  うつろへる視線の前に顔出して話しかくればわが子と識りぬ

  皺多くシミ浮き出でし母の手を擦りつつ妻は話しかけゐつ

  「また来るね」と声をかくれば探すごと視線泳がせはつか頷く

  死化粧に見苦しくなき母の顔柩にあれば心やすらぐ

  ひつそりと妻は手彫りの観音を母の柩の隅に納めぬ

  焼却のスイッチ押せば轟と鳴る炎の音にをののく吾は

  妻と吾と箸もてはさむ一片の足のあたりの母の白骨

  「この骨が喉仏です」と手の平にのせて小さき第二頸椎

 

     レオの首飾り   三十首

  満月の夜に出会ひし女の子レオにじやれつきレオ疲れたり      

  用水路沿ひに歩きて目撃す橋を渡つてくるハクビシン        

  橋の上にレオは寝そべり欄干にわれはもたれて蟋蟀(こほろぎ)を聞く

  レオよりも一歳半ほど年上の老犬ある日バギーで散歩         

  眠りたるレオを抱き上げ帰路につく花咲く桜並木の下を

  高齢の犬を飼ひゐる者どうし話がはづむ夕べの散歩          

  庭に出てしばらく歩きまはりしが額紫陽花の下に眠りぬ       

  植木鉢倒して歩く裏庭に柿の実落ちてレオが驚く

  まつすぐに歩けずなりぬ散歩には数歩進みて右へ廻るも       

  牛肉と茹でた野菜に口つぐみクロワッサンに大き口開く        

  頂きし紫芋をありがたくレオと食べたり蒸しパンにして        

  部屋の隅、壁と家具との間にも頭つつこみ動けずなりぬ       

  「椅子をひつくりかへさないでね。いい子だね。」うれしさうにもレオは笑へり

  蚤がゐることに気付きて大慌て誤解してゐたレオの泣き声       

  蟷螂が部屋に乱入! 助けてとレオを呼べども白川夜船(しらかはよぶね)        

  パソコンの電源コード、マウスなど身に巻きつけてレオは寝てをり  

  「騎馬に犬」狩の絵柄のネクタイとビーズでつくるレオの首飾り   

  ふらふらと歩く廊下は泥だらけシャコバサボテンの鉢を倒して    

  くたびれてレオと寝てゐる夕刻の部屋に聞こえ来豆腐屋のラッパ   

  寝たままで大小便をするレオに不安つのりぬここまで来たかと    

  ナックリング 手首足首内側に曲つてしまひ歩けなくなる      

  体温を測れば四十度越えてゐし朝駈けつくる動物医院        

  処置台に横たはるレオのそばにゐて声をかくれど昏睡のまま     

  注射器の水は口からこぼれたり息を引きとる前の呼吸に       

  早く楽にしてあげたいと話すうち息止まりたり心臓もまた      

  横たはる老犬レオの傍らに一夜付き添ひ絵に描きとどむ       

  骨壺に入りたるレオにあらためて部屋を見せたりすべての部屋を    

  雌犬と芝生にあそび華やげるありし日のレオうつし絵の中

  今日もまた朝の散歩に出かけたりレオの写真をバッグに入れて     

  仲良しの小学二年の男の子「レオは死んだの?パパに聞いたよ」    

 

相国寺