天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

 山河生動 (7/13)

『飯田龍太の時代』思潮社

他の喩法を用いた例についてもあげておく。前衛的な技法といえる。
  手が見えて父が落葉の山歩く        『麓の人』
葛飾北斎の浮世絵におけるクローズアップ手法、北原白秋の短歌「大きなる手が
あらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」を思う。初めに部分を出すことで
不思議が生まれる。
  緑陰をよろこびの影すぎしのみ       『麓の人』
鑑賞のポイントは、中句「よろこびの影」と最後の「のみ」にある。「のみ」は副助詞で、
他を排除して、ある事柄だけに限定する。「影がすぎただけであった。他にはなにも
起こらなかった」という。
では、よろこびの主体は誰か?作者すなわち龍太自身であろうか?その場合は、自身が
よろこんでいるわけであり、しかもそれを他人を見るように詠んでいることになる。これ
は龍太らしくない。自選自解によると、「人波を離れて楡の木の下に行くと、芝の上に真白
なレースのハンカチが落ちている。新婚の持ちものと思われた。」とのこと。よろこびの
主体は新婚さんであった。
  春の夜の氷の国の手鞠唄         『山の影』
春の夜の手鞠唄にも関らず「氷の国」を出すということは、亡き子供を悼んだ句と解釈
すべきであろう。実は、六歳で亡くなった次女を偲んでの作。春の夜の慟哭である。
  鶏鳴に露のあつまる虚空かな        『遅速』
夜明方に鶏が鳴くと空中まで結露するほど露っぽい里の情景であろう。虚空とすること
で、この世とも思えない感じを惹起する。
  餅搗のあと天上の紺に溶け        『山の木』
 何が天上の紺に溶けたのだろうか?普通に考えると餅搗をしていた人々なり場所である。
青空の下、正月用の餅をつき終わった山里の平和な光景だが、溶けてなくなるようなはか
なさも感じられる。