天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

2016-01-01から1年間の記事一覧

浜松・新居関所

大学時代の同窓会で今年は、浜名湖の弁天島にホテルをとった。ホテルにチェックインするまでの時間を新居関所跡や舞阪宿跡を訪ねた。 JR新居町駅から関所跡に行く途中に種田山頭火の句碑があった。「水のまんなかの道がまっすぐ」。新居の関所跡には建物が…

わが歌枕―河内国弘川寺

西行は文治五年(1189年)嵯峨から河内の弘川寺に移り、翌年二月十六日に没した。享年73歳。弘川寺での短い期間に詠んだ歌がどんなものかよく分らないが、弘川寺に移る以前に、予め死を想定して詠んだ次の歌は、あまりにも有名。境内に歌碑がある。 ねがはく…

わが歌枕―平泉

西行は陸奥(みちのく)を生涯に二度尋ねている。30歳前後と69歳の時である。西行は陸奥の旅で、衣川、中尊寺、束稲山などを訪れて歌を詠んだ。二度目の平泉を去った翌年に、頼朝に追われた義経が平泉に逃げてきたという。頼朝軍に攻められ義経が高館で自刃し…

わが歌枕―讃岐(善通寺)

善通寺のすぐ近くに西行が3年間住んでいたところという玉泉院がある。西行が四国を訪れたのは仁安2年(1167年)、50歳の時であった。善通寺では、玉泉院の久松庵と「水茎の岡」といわれる山里に庵をかまえた。西行は弘法大師の跡を慕ってきたのである。 私…

わが歌枕―讃岐(白峰)

[追伸]西行の足跡の多くが歌枕になっているが、以下に続く場所は西行の歌を中心にした歌枕で、私が訪れたところである。『歌枕歌ことば辞典増訂版』や『歌語例歌事典』には載っていない。 西行(1118年生)は生前の崇徳院(1119年生)と親しかった。保元の…

わが歌枕―出雲

出雲は島根県東半部にあたる旧国名。出雲神話の舞台で、古代日本の政治・宗教の中心地。出雲大社が有名。これは国譲りの交換条件として建立された。つまり出雲王権がヤマト王権下に入ることになった時である。この初代本殿は巨大なもので、32丈(およそ96m)…

わが歌枕―末の松山

末の松山は宮城県多賀城市の末松山宝国寺の背後にそびえる大木の松を指すという(右の画像)。 「末の松山を波が越さない」という背景には、貞観地震(平安時代前期の貞観11年5月26日)の時の津浪のことを意味しているという。つまりその時の津波は、画像に…

わが歌枕―白河の関

福島県白河市にある陸奥の歌枕。いわき市にある勿来の関とともに平安時代の重要な関所であった。ここを越えると陸奥(みちのく)になるので、様々な感懐が歌に詠まれた。 たよりあらばいかで都へつげやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛『拾遺集』 都をば霞と…

わが歌枕―那須野(殺生石・遊行柳)

白河の関から北が陸奥と言われたが、その手前の那須野には、殺生石や遊行柳の名所がある。那須湯本温泉の源泉となっている「鹿の湯」の西方に、山肌がむき出しで草木の絶えた谷あいがあり、この奥に殺生石がある。殺生石の周辺からは、硫化水素や亜硫酸ガス…

わが歌枕―筑波山(2/2)

筑波山の山中には、巨石、奇石、名石が数多く散在し、それぞれに名前がつけられ、多くの伝説を生んだ。ガマの油売りの口上は有名。筑波山では古くより農閑期の行事として、大規模な歌垣(かがい)が行われた。これは近隣の男女が集まって歌を交わし、舞い、…

わが歌枕―筑波山(1/2)

筑波は、連歌発祥の地として古事記の次のやりとりで知られる。 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる 日本武尊 日日なへて夜には九夜日には十日を 火焼の翁 筑波山は男体山(標高871m)と女体山(標高877m)の二峰に別れているところから、恋や歌垣の場として詠まれ…

わが歌枕―鹿島

茨城県鹿島市に当る。古来、鹿島神宮で有名。関東から招集された防人たちはここに集合して武運を 祈ってから九州へ出発したという。 三名部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島なる釣する海人を 見て帰り来む 作者不詳『万葉集』 あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御…

わが歌枕―隅田川

隅田川は東京都の東部をながれて東京湾にそそぐ。古くは下総国と武蔵国の当初の国境であった。その後、時代により河川工事で流れがいくつか変遷している。 『伊勢物語』の在原業平の次の歌はあまりにも有名。 名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はあり…

わが歌枕―武蔵野(3/3)

徳川家康が江戸に幕府を開いてからは、人口の急増を見込んで、近郊各地の新田開発が旺盛に進められた。玉川上水や野火止用水が開削され、武蔵野台地上でも農業が可能になった。 こうした開拓によって原野は次第に少なくなり、代わって田畑、屋敷林、街道防風…

わが歌枕―武蔵野(2/3)

11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)や14世紀初めの『とはずがたり』(後深草院二条)には、武蔵野が「馬上の人物が見えないほど」に草の生い茂った土地として描かれており、当時の武蔵野の実態を想像することができる。 ながむべし霜に枯れゆく武蔵…

わが歌枕―武蔵野(1/3)

現在の東京都、埼玉県に神奈川県の一部を含めた広大な洪積台地の地域を指した。武蔵野の名は「武蔵の野」ということからきている。武蔵国周辺のいわゆる東人たちが、名付けたのであった。「武蔵野」の名が初めて現れるのは万葉集の「東歌」で、彼らの詠んだ…

わが歌枕―鎌倉山

鎌倉市にある。現在では桜の名所として知られるが、昔は鶴ケ丘八幡宮の後方にある山という通説であったらしい。道の辺にある大きな石碑「鎌倉山記」には、「(前九年の役 後三年の役の頃)鎌倉郡ヲ周辺シタル群峰ヲ概称シテ鎌倉山ト言フ」とある。つまり平安…

わが歌枕―富士

雄大で美しい山容の富士山は現在でも活火山である。その噴火の歴史は長い(10万年の噴火史)。平安時代に多く、800年から1083年までの間に10回程度、1435年、1511年にも噴火や火映等の活動があったことが調査で知られている。特に大規模な噴火は、貞観大噴火…

わが歌枕―足柄

神奈川県西部、静岡県寄りの地域。足柄山は神奈川県と静岡県にまたがる金時山の北につらなる山。坂田金時や山姥の伝説がある。北の端が足柄峠。東の麓に足柄の関があった。 万葉集には、17首も詠まれている。これは驚くべき数であろう。 足柄の箱根飛び越え…

わが歌枕―箱根

箱根、箱根山、箱根路は相模国の歌枕。「箱」と掛詞にして、「ふた(蓋、二)」「み(身、三)」「あく(開、明)」などの縁語を用いたり、枕詞「玉くしげ」を冠して詠まれることが多かった。足柄との組合せで詠むことも。 足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはな…

わが歌枕―小余綾(こよろぎ)

小田原市大磯町から国府津にいたるあたりの海岸。磯の縁で「急ぐ」に掛けたり(枕詞)、「玉藻」等の言葉を詠み入れた。この歌枕も万葉集から近代短歌まで随分多く詠まれている。 大磯ロングビーチ、吉田茂元首相の大磯別邸、青鳩の飛来する照ケ粼海岸、鴫立…

わが歌枕―小夜の中山

「さやのなかやま」と読む。静岡県掛川市と小笠郡との間の山で、五十三次の金谷・日坂の間にある。「なかなかに」「さやかに」を伴う同音反復表現が多い。 西行は、歌から分るように二度、この山を越えた。28歳と68歳の時である。奥州藤原氏は西行の一族であ…

わが歌枕―三保浦

現在の静岡県清水市の清見潟から清水港をへて三保の岬に至る湾曲海岸をさす。風土記の伝える羽衣説話で知られる。現在の羽衣の松は三代目という。羽衣の松は御穂神社の神体とされている。近くの御穂神社には羽衣の切れ端といわれるものが保存されているとい…

わが歌枕―八橋

八橋は愛知県知立市にある。『伊勢物語』に見られる在原業平の次の歌で有名。 からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬる 旅をしぞ思ふ 周知のように「かきつばた」が句首に詠みこまれている(折句)。杜若の名所であった。八つ橋の語源は、小川や…

わが歌枕―伏見

ここでは京都市伏見区伏見(宇治川の北岸)の場合をとり上げる。ここも平安時代から貴族の山荘が多かった。周知のように伏見稲荷大社は、30,000社あるといわれる全国のお稲荷さんの総本宮である。稲荷山に稲荷大神が降臨したのは、奈良時代の和銅4年(711)2…

わが歌枕―小倉山(2/2)

「小倉山」は「小暗い」「鹿」「紅葉」などと組み合わせて詠まれることが多かった。以下の一首目から三首目は、理屈を入れていることがよく分る。 小倉山の麓にも西行は庵をもって住んだらしい。余談になるが、西行は京都、伊勢、高野山、吉野山、讃岐 など…

わが歌枕―小倉山(1/2)

保津川渓谷の出口近くの東岸の山で、大堰川を挟んで嵐山に対する。標高 293m。古来紅葉の名所。東麓には二尊院,祇王寺,落柿舎 などがある。 二尊院の裏山にある藤原定家の時雨亭跡から京都市内を見渡した風景が右の写真である。 夕されば小倉の山に鳴く鹿…

わが歌枕―嵯峨

京都市右京区の西部一帯の地(小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称)で、「嵯峨野」「嵯峨の山」というかたちでも詠まれた。「性(さが)」と掛詞にすることも多かった。なお奥嵯峨の化野(あだしの)は、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の…

わが歌枕―吉野山(3/3)

歴史的な話題としては、☆672年、大海人皇子(のちの天武天皇)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲した。☆1185年冬、源頼朝の討伐を受け、義経・弁慶らは吉野山に身を隠した。☆1336年、後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷(…

わが歌枕―吉野山(2/3)

吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場の北端にあたる。飛鳥時代に活躍した修験者・役小角は、金峰山で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる。役小角は蔵王権現像を桜樹を使っ…